私は惨めな気持ちで一枚のハガキを握りつぶして、すぐさまゴミ箱にめがけて放り投げた。ゴミ箱の角に当って入らない。イライラしながらゴミ箱に殴りつけるようにゴミを入れた。ゴミ箱の中より私の部屋の方が汚い現実も私をイライラさせるけど、気にせず私はバイトに出かける。というか、気にする余裕が私には無い。そういえば返事を出さないと、と思ったけどそんなものどうにでもなる。いちいちそんなことを気にする自分が馬鹿みたいで嫌いだ。



 今日は初めての一人番の日だ。比較的暇であろう平日に入っている。時給の高さが魅力的だけど、不規則な生活を強いる。だから意外に居心地のいいこの店は万年人不足だ。そんな店で、ついに私一人で店番をする日がきた。ついに、というか、来るべくして来たと言った方がいいのかもしれない。店長は気のいいひげのおじさんで、ちょっとバーテン服が似合わない人物だ。というかかなり似合わない人物だ。そんな店長が、どうしても家族旅行に行きたいからといって、私に店を頼んで旅行に行ってしまった。二泊三日で箱根へ。私に遠慮して比較的近い箱根にしたのだろうか。そんな遠慮より良いお土産買ってきてくれればすべて丸く収まるのに。まぁ、せいぜい8人しか入れない小さな店だし、お店いっぱいに入ることもないからいい。大丈夫、私一人でも店は回る。だけど、酔っ払いの相手を女一人でするのは大変なのだ。今日は誰もお客さんが来ないことを祈るのみ。
 一人でお店の準備をしていると、この薄暗い店内のせいなのか、なんだかもう私はバーテンダーに転職したほうがいいんじゃないかと、弱気になってしまう。もう一か月ぐらい休みがない。このバイトも、いくつかあるバイトのうちのひとつで、どのバイトもとても良い職場だけど、すべて重なると休みが全くなくなってしまう。何より一番のストレスは、本職の方が相変わらず閑古鳥だということだ。閑古鳥のくせに、時間だけは食う。そのわりに本職の方はお金にならない。軌道に乗る様子なんて全く見せない。イライラが止まらない。お客さんがいないから別に隠す必要もない。軽く夜食を作って食べた。お酒も飲んだ。まかない付きなのに、店長が休むから私が作らなくちゃいけない。三杯までと決められているカクテルも、店長がいないから飲み放題だ。その代り、カクテルも全部セルフサービスだ。実にめんどくさい。

 一人密かに飲んでは洗い物というループに入り、何度目かの洗い物をしているときに、
「こんばんはー。」
 お客さんが入ってきた。若い男の人の声だ。全く接客気分じゃなかったのに残念だと給料が発生してる時間に思うのはいかがなものだろう。まぁ、売上0は流石に問題だと思うので、よかったのかもしれない。
「いらっしゃいませ。」
 ちらりと顔を見れば、なんと最悪なことだろう。最近スポーツ新聞でよく見る姿、花形エース、藤代誠二にしか見えない。
「あれ、じゃね。元気してた?」
 驚いた顔で藤代が言う。どうやら本物らしい。最悪だ。できるならこんなところで会いたくなかった。
 そんな私の気持ちなんてもちろん知りもしない藤代は、オススメは〜?とか聞いてくる。お前はいつもそれだよ。空気を読まない。適当に作ったアテとカクテルを渡す。
「はい、これ。おいしいよ。XYZ。」
「あ!これって、シティーハンターの!」
「シティーハンター?なにそれ。XYZってアルファベットの終わりでしょ。これ以上にない究極のカクテルって意味だよ。」
 ついでに言えば、最後の一杯、なんて意味もあるけど。さっさと帰れの意味も含めて。言いたいけど言えないのが悲しい客商売だから、せめてこれくらいの嫌味は許して欲しい。藤代はにおいを嗅いだ後、一口飲んで「あ、おいしい。」と呟いた。当たり前だ。帰ってほしい客でも最善は尽くす。その上私が作ったんだからおいしいに決まってる。というか、私が出したものを怪しいものみたいに嗅ぐな。いぬか、お前は。
にも同じものお願いします、バーテンさん。俺のおごり!」
 ここのね、XYZってカクテルがうまいんだよ、!なんて笑顔で私に言う。お前は今日初めて来た客だし、初めて飲んだんだろうが、とツッコミを入れたい気持ちを抑えて、
 ありがとうーと笑顔で言う。接客業の大変なところだ。



「ね、は同窓会どうするの?」
 そこそこ雑談も盛り上がってきたところで、藤代が尋ねてきた。藤代にとっての本題だろうことは、顔を見た瞬間から気づいていた。残念ながらハガキは私が握りつぶしたので、もちろん参加などするつもりはない。
「ちょっと予定があるから無理だわ。」
 無表情で答える。予定なんてない。久々の貴重な休日だから、家で寝るだけだ。でも、藤代に対する優しい嘘は許されるものだろう。それでも、嘘をつくのがなんとなく申し訳なくて、手持無沙汰に、一口カクテルを口にする。流石私。おいしくできてる。
「どうして嘘つくの?みんな、に会いたがってるよ。」
 私は、苦笑しかできない。なんで私の嘘に気づくかなぁ。それに、そもそも同窓会で一番会いたくなかったやつに言われても困るのだ。

 藤代は、私の答えと、苦笑交じりの表情を見て、そのあとじっと静かにカクテルを見つめた。そして、一息吐いてから、私としっかり目を合わせて言った。
「あのさ、知ってると思うけど、俺、ずっとが好きだった。」
 告白に似たことをされたことがあった。あれは高校のときだ。いまさら当時の告白を聞いて恥ずかしくなるような年齢ではない。
「でも、今も好きだ。俺、がメジャーデビューしたら誰よりも先にに、ファンですって言いたかった。あと、恋人通り越して旦那にもなりたいですって言おうと思ってたけど、それまで待てなかった、ごめん。中学ん時から今までもうすんげー待ってるから、我慢できない。俺と結婚してほしい。」
 藤代があまりにも真剣な顔をするから、とりあえず、私はカクテルをもう一口飲んだ。

 藤代がなんでこんなに性急なのか、私はなんとなく予想がついた。たぶん、海外移籍の話が出ているんだろう。スポーツ新聞がそのネタでずいぶん発行部数を伸ばしたらしいが、どうやらそのネタは間違いじゃなかったらしい。
 そんなどうでもいいことと同時に、打算的な考えも私の頭に過った。
 もしも、いまここで藤代の誘いに乗れば、私は楽に今の生活からさよならできるだろう。みんなからちやほやされて、きっと私の歌もすぐさま売れることだろう。もしかしたら、チャートにだって入るかもしれない。「藤代誠二の妻の歌」として。たとえ一瞬の輝きだったとしても、すぐさま世間に飽きられたとしても、藤代が旦那なら、今みたいにバイトに追われる毎日を送らなくて済む。
 ……だけど、私はたくさんのひとに支えられて、今、こんな状況に陥ってもなんとか生きている。店長だって、私の歌声を気に入ってくれて拾ってくれた一人だ。他のバイト先の人も、みんな私を応援してくれて私を雇ってくれている。今更裏切れない。
 何より、私が一番裏切りたくないのは、藤代なのだ。藤代とのあの日の約束なのだ。



 遠い昔。私にとっては原始時代にも思えるくらい昔に、こんな惨めな私は進学校で有名な武蔵森学園で上位の成績を修めていた。そのまま普通に大学に進学すればきっと普通の人生だったと、今も思う。だけど、きっとこの記憶を持ったままあのころに戻れたとしても、私は同じ選択をするだろう。実に愚かな選択を。

 中学二年生の秋、藤代がなかなか合唱コンクールの歌が上手に歌えないと相談してきた。藤代は、それこそ他人に相談なんてするタイプではなかったから、ものすごく意外に思ったものだ。特に、私と藤代はそれまでそんなに仲良くなかった。というか単なるクラスメートだった。藤代の相談を聞いて、放課後の練習に参加できない藤代を哀れに思った。うちのクラスはなぜか合唱コンクールにものすごい情熱で挑もうとしていて、みんな藤代が部活で参加できないことを責めることはしなかったけれど、明らかな温度差があったように思えたからだ。普段、クラスの中心人物となっている藤代にとっては辛かったに違いない。だから私は、藤代を助けてあげようと思って、私と藤代はお昼休みに音楽室を借りたり、屋上で歌ったりと一緒に頑張っていた。
ってさー。歌上手いよな。」
「は?いや、声自体は藤代の方がいいと思うよ。」
「いやいや、そういうんじゃなくって、なんつーかさ、あれ。今日の空みたいにすごく高くて綺麗で透き通ってる感じがする!」
 いつも通りのお昼休みの単なる青空が、一瞬でいつも以上の青空になった気がした。普段なら、すぐさまお世辞と流すところだったのに、藤代の目が予想外に真剣で、でもキラキラしていて、なかなか上手に流すことができなかった。そんな空気をこの時も藤代は華麗にスルーして、さらにこう言い放った。
さ、歌手になったら?」
「は?いや、そんなの普通になれないよ。」
「いや、ならなれる!で、俺がワールドカップの日本代表になって、が主題歌を歌う!いけるいける!!」
「いやいやいやいや。藤代?冷静なって???」
「俺が今年全国優勝したら!、一緒に目指そうぜ、ワールドカップ!無理だったら罰ゲームな!!!」
 今思い出しても子供らしい夢物語だと思う。だけど、藤代はなんだかんだ言いつつ中2の夏、全国大会に優勝してしまい、私はなんだかんだで藤代に高校卒業までそそのかされ続け、今に至る。
 そそのかされたのは事実だけど、藤代のその熱心さと、私への信頼に答えたかったというのが、私の夢の原点であることには違いない。今では応援してくれてる親も、当時は先生と一緒になって散々反対していた。それまで親に反抗したことのない私の、唯一の反抗だったとおもう。私は、歌手を目指すことにしたのだ。今でもきっと、この愚かな選択を、馬鹿にする人は多いだろう。



 私は、藤代との約束を破りたくないのだ。藤代は着実に私との夢の競演をそれこそ馬鹿の一つ覚えみたいに信じて夢みてくれていて、私を待ってくれている。だけど、私はどう頑張っても藤代が現役でいる間に、トップシンガーに、それこそ、ワールドカップの主題歌を歌えるくらいの歌手になれるとは到底思えない。私だって、頑張ってるのに。藤代と同じように頑張ってきたつもりなのに、全く成果がでない。私が一番自分を信じていない。
 本当は、色々藤代には言いたいことがあった。本当は無理だと思ってることも、もう諦めてしまいたいと思い始めていることも、藤代に謝りたかった。だけど、言ってしまえばそれは私の認めた現実になってしまうから、怖くて藤代に連絡が取れなかった。かつてのクラスメートたちに馬鹿にされたって構わない。みんなのその評価は正当だから。でも、藤代にだけは、顔向けできなかった。一番応援してくれたのは、藤代だったから。申し訳なくて、顔向けできなかった。



「ごめん。冗談だとしても、受けられないよ。」
「そう言うと思った。だから俺、に言ったんだ。」
「なにそれ。」
 藤代と目を合わせるために無理やり笑顔を作って顔を上げた。気づかないうちに下を向いていたみたいだ。藤代はきっと、笑ってると思ったのに、中学最後の試合に臨むときと同じ顔で私を見ていた。三上先輩に振られた私に「じゃあ俺にしろよ」って泣きそうな顔で言ったあの時の顔とも違う。
 ――いつの間にか、藤代、大人になってたんだ。
 当たり前のことなのに、ものすごく悲しい。カウンター越しでよかった。暗くてよかった。一人番でよかった。藤代が帰れば少し泣ける。
「いつからそんな苦しそうに笑うようになったの、。」
「そんなの、気のせいじゃない?暗いし。」
「俺はずっとお前を見てたからわかるっつーの。だいたい、俺、お前との約束守るためにすんげー頑張ったし!約束守れなかったら、罰ゲームとして俺と結婚してください!」
 なんで最後だけ敬語?っていうか、あんな馬鹿みたいな約束、覚えててくれたんだ。相変わらず結構真剣な藤代の顔のせいで、私の笑顔に少しだけ、たぶん一滴だけ、水滴がついた。青春の名残みたいな汗に違いない。誰にも見られたことなかったのに。藤代のカクテルにも水滴がついてる。私にとって意外だったけど、案外時間が経っていたようだ。藤代はじゃあ俺そろそろ帰ると言わんばかりに、私が作ったカクテルを一気飲みした。カクテルについた水滴は、藤代の手についた。
「次にこっち帰ってきたら、、俺とデートしよ!どんな予定もキャンセルでオネガイシマス!」
 藤代は、昔に戻ったみたいにキラキラした笑顔で言う。だけど、なんだか少し知らない顔にも思える。
「しょうがないなー。代わりに納期伸ばしてよ。あんたがワールドカップ出続けてくれたら、こっちも勝算上がるから。」
「えぇー。まぁ、頑張るけどさ。がお嫁さんになってくれたらもっと頑張れるんだけどなー。」
 藤代は、そろりとこちらを見て言う。
「うっさいわ。毎日人参食べさせるよ!」
 それは勘弁!じゃあまたメールする、と笑いながらお金を出して、店を出ていく藤代は、びっくりするくらいあっという間だった。嵐のよう、なんて喩え方は穏やか過ぎる。嵐だった。それにしても、明らかに貰いすぎのこのお金、どうすればいいのか。とりあえず、そのメールぐらいはこっちから送ってあげようか。
 いつの間にか笑いながらメールを打つ私は明らかに仕事中のテンションじゃない。藤代に会うまでの私もそうだったけど、今は正反対だ。だけどたまには陽気なバーテンがいてもいいんじゃないかな。藤代におごってもらったXYZを私も一気に飲み干した。
 大丈夫、この暗闇の中でも藤代のおかげでもう少し頑張れる気がする。