一口飲めば、気を失うというその飲み物を、私は飲んでみたくて仕方がなかった。臭いといわれるものを一度は嗅いでみたいといった感覚に近いのだろう、と人はいう。確かに、そういった気持ちがないわけではないけれど、それだけではない。私は、本当にそんな飲み物が存在するとするなら、それは神からの贈り物だと思うのだ。
 その奇跡の飲み物について、不二くんは耐えられなかったと評価し、菊丸くんは顔を青ざめて、その件については語りたくないとでも言うように、立ち去った。普段焦ることのない不二くんが耐えられないといったその飲み物が、いつも明るい菊丸くんを顔面蒼白にさせるその飲み物が、私は気になって仕方がない。
 その飲み物は、いつもあるわけではないらしい。菊丸くん曰く、なんらかのイベントの時の方が出されやすいそうだ。不二くんは、その飲み物以外は結構おいしい時もあるんだけど、あれだけはオススメできないと私に言う。

「乾くんに直接頼んで飲んでみたほうがいいかな。」
と、私が二人に相談すると、
「絶対、ぜぇぇぇっっったい、やめたほうがいいよ!ちゃん、死んじゃうよ!」
「僕もやめたほうがいいと思うな。だいたい、乾が調子に乗ってさらにすごいもの作っちゃったら、僕らが一番困るし。」
と、全力で止める。私は乾くんとはあまり面識がないから、二人を通して出会うしかないので、二人に止められたらその魅惑の飲み物にたどり着けない。
「じゃあさ、私に乾くん紹介して。」
「絶対だめ!ちゃん、自分を大事にして!」
 菊丸くんでも私の魂胆がわかるようで、すぐさま却下される。最後の頼みの綱、不二くんは相変わらず笑顔なんだけれど、絶対だめっていうオーラがありありと出ていて、私は怖くて尋ねることもできない。
「乾は悪いやつじゃないんだけど、さんはあれを飲みたいっていう下心があるからね。」
 私は何も言っていないのに、さらに不二くんにダメ出しをされる。もう、どうしようもない。正攻法はほとんど無理に等しい。

 そこで、私はテニス部を観察することにした。乾くんのスペシャルドリンクが、もしかしたら部活でふるまわれるかもしれない。実にその計画は2週間ぐらいで達成されることとなった。予想外に早くその存在を見れて、私にとっては嬉しい誤算だ。たぶん、テニス部部員にとっては悲しい誤算だろう。机に配置される乾くんのスペシャルドリンクが、私には輝いて見える。
 さて、ここで賢明な読者諸君は覚えているだろう。私がたとえ、不二くんと菊丸くんの目を掻い潜って、正攻法で乾くんに「その飲み物ください」と言ったところで、分けてもらえないことを。そこで、私は、少し強引というか、かなり強引だけれど、乾くんのドリンク強奪を思いついた。と、いうか、本当は強奪するつもりは少ししかなかったのだけれど、あの色を見て、私は自分を抑えられなくなったのだ。もしかしたら、あの飲み物であればという期待が持てる。毒々しい緑色。遠目でもわかる、どろっとした謎の液体。

 ランニングは、どうやらトラックを走るらしい。机から遠い反対側に一番多くの部員たちがいる隙に、私は1000円を握りしめ、机に向かって走り出した。男女の差はあれど、机への距離は私が圧倒的に近い。誰も私には追いつけないようだ。
「ごめんなさい!!!!」
 大声で叫んだあと、1000円を机に叩き付け、私はジョッキに入った飲み物を飲んだ。遠くから「ちゃん、早まらないで!」とか、「さん!!!!」という声が聞こえるけれど、気にせず飲む。あ、でもこれ……。
「大丈夫?ちゃん!」
 菊丸くんが青ざめた顔で私を心配する。少し遅れて、不二くんも来た。目を見開いている。知らない部員たちも私を囲む。私は、こんなしょうもないもののために、大変なことをしてしまったのだ。
「ごめんなさい。どうしても、飲んでみたくて。」
 数口しか飲んでないのに、私は興奮して一気に半分も飲んでしまった。生徒会長も、私をにらむ。当たり前だ。みんなこれが飲みたくて走っていたんだろう。

「どうして、飲んだんだ。」
 生徒会長は落ち着いた声で私を責める。
「すごい味だって、噂で聞いて。どうしても飲んでみたかったんです。でも、私、乾くんのことよく知らないし、急に声をかけられなくて。」
 怖くて誰の顔も見ることができない。地面は体育の時と同じ色をしているはずなのに、色を失ったように思える。
「まぁまぁ、手塚。ねぇ、その、1000円は?」
 生徒会長と違う声が聞こえて、私は顔をあげられないまま、答える。
「せめてものお詫びに、と思って。最初から、そのつもりでいたんです。警察に突き出してもらっても構わないです。」
 警察ということばが、口の中でリアルさを主張している。当たり前だ。泣くわけにはいかない。たとえどういった結果になったとしても、私はこうせざるを得なかったのだから。
「警察には言わないが、このままでは部員にしめしがつかない。悪いが、残りの乾汁を全て飲み干してもらって罪を償ってもらう。」
「……え?」
 私は、そこでやっと顔をあげた。相変わらず私をにらむ生徒会長に、私は、真意を測れずにいた。
「え、それはひどすぎるんじゃない、手塚!」
「よかったね、さん。手塚、許してくれるって。」
 まったく違う反応の二人をみて、不安になる。
「あの、それだけでいいんですか。他に、なにかありませんか。」
「……ここにある乾汁全部飲むか?」
「わかりました。その、みなさんの飲み物奪ってごめんなさい。」
 そういうと、周りから謎の歓声が上がった。私は、まずは自分の分を飲んでから、他のジョッキに入った分を飲み始めた。のど越しは悪いけれど、健康にはよさそうだ。私が飲めば飲むほど、周りは私を見つめる。
「あの、やっぱりみなさん、のど乾いているんじゃ……。ごめんなさい。」
「いや、全然大丈夫ッス!」
 つんつん頭の男の子が即答する。
「もしかして、今回の乾汁って美味しいんじゃないですかー?」
「飲んでみるか、堀尾。」
「いや、大丈夫ッス!」
 謎の会話を耳にしながら、もしかしたら、と思う。
「あの、もしかして、これ、まずいんですか?」
 私が問うと、一斉に「まずい」と答えられた。そうか。だからこれが罰になるのかなぁ、としんみりしてきた。
「いや、僕は大丈夫だよ。」
 不二くんだけは違うことを言う。不二くんは少しだけ、私と同じ感覚を持つのかもしれない。
「え、でも、前気絶するほどまずかったって言ってたのは?」
「あれはこれじゃないんだ。」
 不二くんは困ったなぁって顔をしながら言う。そうか、間違えたのか。私はさらにがっかりしながら最後の一口を飲みきった。
 

 私がジョッキを洗っていると、休憩なのかなんなのか、身長の高いひとがすぐそばに現れた。あ、乾くんだ。
「あの、乾くん、本当にごめんなさい。」
「いや、あんなに求められて飲まれたなら、あの汁たちも満足だろう。」
 乾くんって、優しいんだな。私は少しほっとして、また涙腺が緩みそうになった。
「君は、不二が倒れた飲み物を、飲んでみたいのかい。」
「うん。許されるなら飲んでみたい。」
 私がそう言うと、乾くんは嬉しそうにクーラーボックスから、謎の液体を取り出した。とっても青い。毒々しさは先ほど飲んだ乾汁(というらしい)と比べ物にならない。
「これが、不二を気絶させた飲み物だ。改良の為に冷やしていたんだが、よかったら飲んでみるかい。あ、勿論お金はいらないよ。さっきのも返されただろう。」
「うん。返された……。あの、ありがとう!」
 私は、次こそはという心持で青い飲み物を口元に運ぶ。あ、なんか目にしみる。期待で胸が爆発しそうだ。そっと口に含むとよくわからない、けれどなんだか変な味が広がる。確かにこれは、飲みたいと思えるものじゃないかもしれない。二口目で意味の分からない味が口にもっと広がる。遅行性なのかなんなのか、鼻にまで突きぬけるこの臭い。
「ありが」
 人生で初めて味というものを知ることができた喜びを胸に、私はお礼を言いきることもできずに気を失った。