目白駅を出てすぐ右手、交差点を渡った先に私の通う大学がある。幼稚園から通っている学校だから、この見慣れた風景からそのうち自分の姿が消えるのが想像できない。自宅近くに駅ができてから、通学路が多少変わったとはいえ、この学校の中も、私の友人たちもなにも変わらない。私がこの風景から消えるとき、それはきっと父や母に従い、どこかに嫁ぐ時だろう。小さなときからそう言われていたのだ。
 私は、昔から自己主張をしないように育てられた。我が家では、私の個性など求められていない。男であればそうでもないと思うけれど、私は女だから、いかに家にとって良いひとと結ばれ、旦那となるひとを支え、子を孕むのかということが求められる。老舗の呉服屋である家にとって、大事なのは子宮のある言いなりの人形であって、私個人ではない。だから、今時の下品な女のように恋愛などに現をぬかし、駆け落ちなどしないよう、小さなときからそう言い聞かせられて育っている。
 学校でも、あまり個性を出さずに過ごしてきた。友人は確かに多くいる。ただ、たぶん、普通の人が聞いたら首をかしげるような関係だろう。私は、友人が多くいる、というよりかはむしろ、たくさんのひとにくっついてそこにいるだけの存在なのだ。それを、とりあえず「友達」と表現しているだけで、実際は彼女たちが何であるかを上手な単語で表すことができないのだ。もちろん彼女たちが悪いわけでも、私がいじめられているわけでもない。私が個を殺して存在することに慣れ過ぎた弊害として、自分の無い私と格別親しくしてくれる人がいないというだけであり、当たり前の理由からなのだ。
 ただ、小学校のころに、一度だけ読書感想文で大賞をいただいたことがある。それが私の唯一の個性をみんなに出せたものだと思うのだけれど、父が、
「女が文章など書いても意味がない。」
の、一言で私を褒めもしなかった。父に従って、母も褒めてはくれなかった。褒めてくれたのは学校の先生や友達だけだったけれど、私はとてもうれしかった。
 だから、私はそれから密かに文章を書き続けている。小学生から続けているから、HNは「」と、本名を使ってしまっているけれど、所詮名前だけでは私だとだれも気付かないだろう。むしろ、名前を使ったことで、インターネットという素晴らしい世界でのみ、私は家に必要な人形としてではなく、個人のとしての私でいられる気がするのだ。虚構の世界に何を求めるのか、と馬鹿にされるかもしれないけれど、それでも私にとって大事なものなのだ。私にとって唯一の楽しみだから。
細々と続けた私のサイトで、この前書き上げた、「ある首を巡って」は、意外に好評でうれしかった。平凡な高校生、田中太郎が都会に憧れて上京し、幼馴染と再会。かわいい女の子に初恋というにはあまりにもまだ青いみたいな恋の話もありながら、実は池袋を拠点にもつチーム「セント」の裏ボスである田中太郎が、暗躍する新宿のキリハラという情報屋のせいで首なしライダーの首をめぐって、怪しげな製薬会社やら美少女やらに巻き込まれていくという、ハチャメチャなストーリーだ。書いている時、ちょうど父がお見合いの話を大量に持ってきていたので、ストレスが溜まっていたのだと思う。普段ならこんなめちゃくちゃなストーリーなんて書かないのに、どうしてか、この時だけは書きたかったのだ。たぶん、「新宿のオリハラ」や「首なしライダー」という都市伝説が私の書き方を狂わせたのだろう。普段も確かに、インターネットを使って情報をある程度集めてから書くけれど、司馬遼太郎や松本清張のような話が書けるようになりたいからであって、これはあまりにも外れている。
 それでも、どういうわけか、今までで一番反響のある話はこの話で、特に甘楽さんという女性が一番熱心に反応をくれて嬉しかった。更新するたびに、独特のコメントの書き方で、どうやってこんな話を思いつくのか、どこからこの小説のネタを手に入れたのかと聞いてきてくれた。今まで、こんなに熱心に自分の小説を読んでくれたひとなど、きっといないだろう。私は、いつしか彼女からのコメントが楽しみで、彼女のコメントのために書き進めていたと思う。その、焦る気持ちが結果的にこんな非現実的な話になってしまって、本当に彼女には申し訳なく思っている。もっと良い作品が書ければ、とはいつも思うものの、これほどまでに強く思ったことはなかったかもしれない。
だからかもしれない。その負い目で普段なら確実に断わったであろうオフ会らしきものに、承諾してしまった。オフ会、とはいうものの、私と甘楽さんの二人だけで、だ。まぁ、甘楽さんはきっと女性だろうし、あまり男性受けしそうなものを書いているわけではないので、出会い目的のひとなどいないだろうし。甘楽さんは、黒のコートを着ているそうだ。今の時期には少し暑いような気がするが、彼女はその黒のコートを気に入っていて、夏でも夏用に丈を変えて着ているらしい。「黒のコート」を「年中着ている」というそのワードはまるで、「情報屋オリハラ」のようで、連絡のメールを見て一瞬ドキッとしたが、まぁそんな物語のような人物はいないだろうし、少し小説に気分が入りすぎているだけだと思う。

 大学での用を済ませ、待ち合わせ場所の目白駅の改札前へ戻る。大きすぎず、小さすぎず、きれいなこの駅が私は結構気に入っている。その上、そこまで利用者が多いわけでもないから、すぐに甘楽さんを見つけることができるだろう。私は本を読み、携帯を気にしながら甘楽さんを待つ。
「こんにちは、甘楽です。早いね。」
 予想外の爽やかな男性の声が聞こえて、私は驚きながら本から目を離した。目の前には、好青年と呼ぶのが相応しい男性。黒いコートを羽織っている。私が目を白黒させていると、
「あれ、そんなに驚くとは意外だ。もしかして、本当に女だと思ってたの?」
と、さも面白そうに呟く。何が面白いのだ。私は男性と会うつもりなどなかったのに。家の者にばれればどれだけ怒られるかわかったものではない。
「こんにちは、です。あの、私、甘楽さんがおっしゃる通り、本当に女性が来ると思っていたのです。男性とお会いするのは、ちょっと家族の者も心配しますし、ここまで来ていただいて申し訳ないのですが、今回はなかったことにして「さんの小説を読んだのは俺だし、コメントも全部俺だよ。性別で差別するなんて、ひどいんじゃないかなぁ。それとも、何?自分がナンパされるほど可愛い有名人とでも思ってるの?」
 そこまで言われれば、こちらからもう一度このオフ会を断ることはできない。確かに、甘楽さんが言うように、性別で判断するのは失礼だろうし、何より確かに単にナンパ目的ならあんなまどろっこしいマネなどしないだろう。
「確かに、甘楽さんの言う通りですね。すみません。本当に気が動転してしまって。メールで連絡したように、素敵なカフェがあるんです。男性の方にもお気に召すかわからないのですが、とてもデザートとコーヒーのおいしいお店なんです。そこでいいですか?」
「うん、行こう。俺コーヒーには結構うるさいよ。」

 駅からすぐの大通りを横切り、少しだけ入り組んだ道を入ると、私のおすすめするカフェがある。実際はここに来るつもりはなく、個室の落ち着いた店を選ぶつもりだったけれど、男性が相手なら個室はできるだけ避けたいと思い、個室の無いこのカフェを選んだ。甘楽さんは、一見爽やかに見えるけれど、なんとなく言い知れない不安を与える男性だと思う。私の情報を引き出したいのかよくわからないけれど、まどろっこしい話し方をするというのが、30分ほど話した今の印象だ。
「ねぇ、ところであの小説、本当によくできてるよね。俺、すごくびっくりしたよ。まるで知ってるみたいだから。」
「知ってる?知ってるって、何をですか?」
 突然私の小説に話が向かったかと思えば、相変わらず的を射ないことを言い出す。
「俺さ、折原臨也なの。それだけでわかるでしょ?」
 何を言い出すのか意味が解らない。確かにインターネットで見た「情報屋」の名前は「折原臨也」だけど、それも都市伝説のひとつだろう。本当にそんな人物がいるとしたらよほど痛い人間であり、そして――危険な人物に違いないだろう。
私が怪訝な顔をしているのに、彼は相変わらず爽やかに笑いながら話しかける。
「あれ?信じてない?さん。俺、君があまりにもうまくあの一連の出来事を書くから、一応さんのこと調べさせてもらったよ。あの呉服屋の娘でしょ。まさか本名そのままHNで使ってるなんて思わなくてびっくりしたよ。」
 もちろんインターネットでは苗字を名乗ったことなんてない。なんてそこまで特徴的な苗字でもないのだから、呉服屋であることまでバレるはずなんて無いのに。私はきっと青くなってるであろう顔を少しでもなんとかするために、とりあえずコーヒーを飲んだ。
「でも調べてびっくりしたよ。あんなの俺ぐらいしか思いつかないかと思ったのに。よほどゲスい人間が書いたのかと思えば、良家のお嬢様。しかも親にも反抗したことのない、ね。」
 嘲笑するように、甘楽さん、いや、情報屋の折原臨也は微笑む。
「話してて思ったけど、君は本当に家の人形なんだね。自分ってものがまるで無い。つまらないなんとも可哀想な人間だよ。」
 私は、我慢ならずに立ち上がった。もうこの人と同じ空間にいるのは我慢ならない。私の手に無理やり何かを握らせて、気にせず話し続ける。
「君がもしも家という檻から出たくなったら連絡をくれるといい。俺が君を助けてあげるよ。」
「私があなたの考えがわかるとするなら、あなたは観察対象が欲しいだけでしょう?その言葉と反対に行動する方がよさそうね。」
 相変わらず笑顔のこの人物の手を振り払い、1000円を叩き付けてカフェを出た。本当なら、彼の連絡先などすぐさま捨て去らなければならないのはわかっている。けれど、「家から逃げられる」という甘い誘惑は、私にとってどうしようもない。連絡するかはわからない。この檻を出れば、私はあの男の良い観察対象として狂わされて終わる気もする。それでも、このまま家にいて、人間として狂っていないといえるのだろうか。とにかく、一旦冷静になるためにも私は家路を急いだ。


 臨也はと別れた後、カフェを出てそのまま散歩に出かけた。自分には馴染みのない目白を観察しながら歩く。新宿に戻るなら、この時間帯なら彼女と同じ電車に乗らなければならないが、彼女とこれ以上一緒にいると心が見透かされそうで嫌だったのだ。臨也は彼女を「つまらない人間」と評したが、実際それは家に固執するという面においてのみである。臨也にとって、が言った通り、自分と同じ思考回路を持つ人間としてとても興味がある。だからこそ、影武者として適当な人材を「甘楽」にして送らず、自らに会いに来たのだ。しかし、に興味があるとはいえ、自分の考えを見透かしそうなところが嫌でもあった。だから、最後まで自分の代理を送るかどうか悩んだのだ。
 は、インターネットの莫大な情報から「池袋」という限定を用いたとはいえ、さまざまな情報を得た。誰でも興味を持つ「首なしライダー」を使うのはわかる。だが、そこに「ダラーズ」や「矢霧製薬」、さらに、しかもあえて「新宿」に拠点を置く「情報屋のオリハラ」までメタファーした作品を書いたのだ。たぶん、臨也と与えられた「駒」の数は大して変わらない。むしろ、は「インターネット」のみを媒介にしたという理由と、彼女自身が一連の事件の当事者ではないという2つの理由で、彼女の「駒」は臨也よりいくらか少ないくらいだろう。それでも、足りない「駒」を脳内で補い、無意識に臨也の考えたあらすじとほぼ同じように書き上げてしまった。臨也との間には、行動したか、単なる妄想に留めておいたか、の違いのみになる。この一線は確かに大きな一線だが、――ここまで自分のした行動に近いあらすじとなると恐怖すらある。実際、と何度もコメントで接したが、彼女が本当に知らないでフィクションとして書いているのか疑わしいと思っていたくらいだ。しかし、彼女には知り得るほどの技術は無い。九十九屋ほどの情報屋ならわかるが、そんな形跡もない。は、本当に脳内のみで「駒」を使い作り上げていたのだ。
 そんなの経歴を調べて、さらに驚いた。ここまで似ているのだから、経歴も似たようなものかと思っていたが、一般家庭の自分とは違い、はあの家の箱入り娘だったのだ。彼女が気づいているかどうかは微妙だが、家は単なる老舗の呉服屋ではない。政界や裏の世界にも昔から通ずる「由緒正しい」家柄だ。正直、臨也の持つ情報をすべて使っても、あの家を瓦解することはできない。むしろ、逆にこちらのほうが危うくなるだろう。しかし、それでも彼女が家に縛られたままではおもしろくないのだ。幸い、彼女は自分を出したがっている。臨也はそれをそっと後押ししてやればいいだけである。その後、がどうなったとしても、臨也にとって大層興味深いものになるのは間違いない。家の存在に精神的に依存しきっている。それによって彼女が壊れるのもまた、おもしろいのではないだろうか。一方で、先ほど述べた通り、彼女は家から自立したいと意識下で思っている。もしかしたらとんでもない人間になる可能性もある。

「彼女にとって、蜘蛛の糸なのか、それとも破滅への道標なのか。おもしろいねぇ。楽しみだねぇ。」

 臨也の声は、独り言にしては大きかったが、この閑静な街では幸い独り言となったようだ。彼の声は風に乗って消えてしまった。


Где мои рай?