最悪。雨、降ってる。
 はぁ、と溜め息を漏らしながら、空を見上げる。濃い灰色の雲は、彼方まで続いており、到底通り雨とは思えない。濃い雨のにおいを嗅ぎながら、顔を少ししかめる。雨が降ると頭痛がするのだ。無理に痛さを隠した顔で、傘を差して足早に歩く人々を眺める。道を通るのは大抵男性で、傘の色は全体的に暗い色が多いが、そこに差し色のように女性のカラフルな傘が混じる。カラフルな傘を目印に顔を見ていくが、あいにく知り合いはいないようで、この頭痛と濡れることを無視して駅まで走るかどうか、真剣に考え始めた。
、また傘持ってないの?」
 透き通るような声とでも、爽やかな声とでも、どちらにも形容できる声に、今度こそ隠すことなく顔をしかめた。自分の背後に立つ人間が誰であるか、声だけでわかった。脳内にすぐさま声をかけた人物の服装や今しているであろう表情までもが浮かび上がる。黒のファー付きのコートを年がら年中着て、一見すると爽やかに見える青年の顔だ。
「傘、入れてあげようか。」
「いらない。」
 振り返ることも無くすぐさま答える。後ろから聞こえる男の声を無視して、本格的に降る雨の中を、やはり走るしかないのだろうか、と決意し始めるころ、また、青年が声をかけた。
「やっぱり傘に入れてあげるよ。こんな雨の中を傘なしだなんて風邪ひいちゃうでしょ。久々に相合傘でもしよう。」
 体が右足に重心を置くように動く。左足は雨の中を踏み出そうとくるぶしのところまで上がったところだった。
「ねぇ、それとも、もしかして俺と相合傘したら、また俺に惚れちゃう?」

 私は、かつて折原臨也と同級生だった。幼稚園から高校まで。いうなれば幼馴染だ。中学生の時のあの事件まで、どちらかというと目立つ存在ではなかった彼を、気にし始めたのは小学生の時だった。普段から傘を持ち歩かない私を知ってか知らずか、土砂降りの日に傘に入れてくれたからだ。途中でどしゃぶりから小雨になっても、臨也は私を傘にいれてくれていた。小学生だからか、それとも小学生だからとはいえ、というべきか、私はたったそれだけで彼が好きになってしまった。
 それから人と一線を画すような、だけどそれをうまく隠す彼に気付いた。それが、小学生の私にはとても大人のように見えて、さらに好きになった。彼はお得意の人間観察で、私の気持ちなんてとうに知っていただろうけれど、特に何か触れ回るわけでもなかった。
 彼との関係に動きが出たのは中学生のときで、たぶん、後にいう彼の「信者」には最初になったと思う。彼によって私はたくさんのものを得たし、たくさんのものが奪われた。たくさんの夢と希望をもらったし、たくさんの失意と絶望をもらった。彼は、私の青春の象徴だった。その青さが良いか悪いかの判断は付きかねるけれど。

「惚れないよ。」
 少しだけ昔を思い出してから、私は自分に確かめるようにして言った。雨は未だにざあざあ降り続ける。少しでも弱まればいいのに。だけど、こうやって臨也と話せる時間をくれる雨に少し感謝している自分が嫌いだ。
「ねぇ、あの男に満足できるの?平凡で、なんの変哲もない、普通の男だよ?」
 珍しく、臨也が人を留めるようなことを言う。私に愛着なんてないくせに。今や私も大人で、臨也がどう思っているかなんてわかるのに。あの頃の青臭い私から、純情を奪ったのは他でもない、臨也なのだ。
「平凡だからいいんだよ。もう臨也には、新宿の折原臨也にはついていけないの。」
 結婚してしまえば、きっと臨也とはもう会えないだろう。臨也は最低最悪な人間だと思われがちだけど、一般人には、興味のない人間には手を出さない。婚約者は普通の会社員で、特に出来が良いわけでも、顔が特別良いわけでもなんでもない。むしろ私以外に女を知らないくらい純朴な青年で、これは臨也が今更だましてもどういう反応をするかわかりきったタイプだ。驚くほど臨也とは正反対のタイプで、粗探しをしても、特に何も見つからないだろう。
 かつて、私の愛した折原臨也は、それこそ、少し大人びているだけの普通の少年で、決して、決してこんな人間ではなかったのだ。たぶん、私は一番臨也に愛されていた。それは、最初に信者になったから、愛着を持たれているという意味で、だ。私はいつまでたっても目を覚まさない彼に愛想を尽かしたのだ。いつまでそんな怪しい仕事をし続けるのか。そしてそれに加担し続けなければならないのか。そんな自分にもう疲れたのだ、私は。



「俺の方が、いいんじゃないかな?」
 後ろから聞こえる少しだけ遠慮がちな男の声を無視するように、は軒下から飛び出した。相変わらず外はどしゃぶりだが、は気にする素振りも見せず、悠々と歩く。臨也はそれを追おうとはしない。
 私たちは、もう、さよならの時間だから。もう、同じ道を歩むことはできないから。
 はただ、そう、心に思うだけである。

 少ししてから、臨也は傘を閉じて、と同じように軒下から出て行った。彼もまた、悠々と歩くが、行く先は駅とは反対方向だ。顔には困ったような笑みが浮かんでいる。彼が何を考えていたかは、彼以外、もう、誰にもわからない。