ジャミル様がひどい領主様だと思われていたと知ったのは、私が自由の身になってからだった。


 私は母の顔を知らない。父は誰かわからない。虚弱な一族で、世話を怠ればすぐに死ぬ。蹴っても死ぬ。子を孕めば、一人産むことが精いっぱいで、産めばすぐ死ぬ。男は産まれない。本来奴隷としてしか生きることなどできない民族だ。もちろん、これだけ弱いから、数はものすごく少ないらしい。私は同じ一族の者を見たことがない。
 これだけ弱いものを、なぜ奴隷として扱うのかというと、見た目が人形のように美しいからだ。愛玩奴隷として、その数の少なさからも私たちは希少価値が高い。その上、不老だから、衰えない富の象徴として得たい、というひとが多い。そのわりに滅多に奴隷市場に出回ることも無い。どこかの貴族が没落の際に手放す以外は。私の前のご主人様ももちろん、没落したうちの一人だ。
 値段の張る私を買い取ったのは、まだ幼いジャミル様のお父様だった。私を受けわたす奴隷商人は「くれぐれも、殺さないようご注意ください。」と念を押した。ジャミル様のお父様は、私に、
「お前は、うちの息子のものになってもらう。今はわからないだろうが……。どうか、うちの息子に人の心を思い出させてやってほしい。」
と、おっしゃった。それから数日して、奴隷商人の数倍口をすっぱくして私の取り扱い方をお教えになり、最後に「気に食わないことがあっても蹴ってはいけないよ。」と言ってさらに念には念を入れてから、私をジャミル様に引き渡した。

 ジャミル様に引き渡されてから、私はほとんど自分の部屋から出たことがなかった。ほとんど同い年だったジャミル様は、とても優しい方だったので、外に出たいと思わなかった。それに食事はいつも運んでもらっていたし、トイレも部屋にあったから、特に外に出る必要がなかったからだ。部屋からでるときといえば、パーティーの時ぐらいで、その時はとてもきれいなドレスを着せてもらって、色んな人に褒められていたし、ジャミル様も鼻高々、と言った感じで、部屋から出るのは億劫だけど、別に嫌でもなかった。

 毎日遊んでくれたジャミル様は、いつごろからか、昼ではなく、夜に会いに来てくれるようになった。空が満月のとき、ジャミル様は月光を浴びてとても美しかった。いつものように、優しく手を取ってくれた。頬を触ってくれた。ジャミル様は、前のご主人様よりもっと優しく私を扱ってくれた。月が見えないとき、ジャミル様の顔が見えなくて、私は嫌だった。ジャミル様はそんな私のために、時には歌を歌って、時には私の知らないお話をしてくれた。ジャミル様と一緒に寝ると、ゆっくり安心して眠れた。一人で眠るには大きすぎるベッドだったから、二人で眠るのが当たり前のような気がしていた。
 私は、奴隷だけれど、ジャミル様が好きになっていってしまった。これだけ優しくてかっこ良くて、私を大事にしてくれる人のことを、一体だれが惚れられずにいられるものだろうか。彼に伝えるつもりなんて毛頭なかった。私は所詮奴隷だから、言っても無駄だし、なによりジャミル様が私を人として扱うとは思えなかった。彼の扱いは、とても優しかったけれど、それは自分のお気に入りの人形に対する優しさだということは、それとなく検討がついていたからだ。
 それでも、彼の子を身ごもることができるのであれば、喜んで命を差し出そうと思っていた。彼と私の子は、私は見ることができないけれど、きっとかわいらしいに違いない。
「お前は子を産むと死ぬから絶対に孕ませない。は僕が死んだら、一緒に生きたまま僕のお墓に入って僕の傍で死ぬんだよ。」
 正直、そう言われたときに、冷水を頭からかけられたような気持ちになった。私ごときが、ジャミル様のお子をなそうとすること自体が間違いだったのだと、そんな思い、許されるはずがないと、改めて思わされた。ただ、ジャミル様がそうおっしゃるから、私は、いくつになってもジャミル様と共にいるつもりだった。ジャミル様を置いて死ぬことも無く、弱い体であってもただひたすら共に、と。

 それなのに、「今晩は行けない」とメイドさんを通して伝言だけを伝えて、帰って来ないとはいかがなものだろうか。

 そのうち、知らないメイドさんが、「もう大丈夫。新しい領主さまが奴隷を解放してくれたのよ。」と、無情にも笑顔で私に伝えた。意味がわからなかった。ジャミル様は、「今晩は行けない」と言ったのであって、永遠に来ないなんてことは言ってないのだから。それを、「もう大丈夫だからね」と優しく頭を撫でるこの人は一体なんなんだろう。
 彼女に連れられ、部屋を出た私は、驚愕した。ジャミル様がいないのに、みんな輝くような笑顔で宴会の準備をしている。聞けば、ジャミル様はもう戻ってこないだろうからと、宴会を開くらしかった。意味がわからなかった。自分のご主人様がいないのに、それを祝う意味が。ご主人様であることを差し引いても、あんなに優しい人がいないことを祝うなんて、この屋敷の人たちは悲しくて気がくるってしまったのではないか、と。
 あまりの恐怖に、私はそのまま高熱を発して倒れた。
 私の看病は、いつものメイドさんがしてくれた。彼女は何も言わずに、ただ優しく私を看病してくれるだけだったけれど、風の噂で、ジャミル様がどんな人物だったか聞こえてくるようになった。彼の普段の行いを、知ることになった。

 私は、彼がこれほどまでに疎まれているなんて、知らなかった。続くストレスに、私でも少しは抵抗がついたらしく、ゆっくりと、2週間かけて私の熱は下がっていった。私は熱がある間、泣き続けた。いつでも泣くからか、ひどい顔になったと思う。やっと、泣きやんだかと思っても、一日のうちのふとした瞬間にジャミル様の優しさが思い出されて泣いた。泣いていない時でも、鼻の奥がつんとした。目はいつだってしょぼしょぼしていた。
 そうこうしている間に奴隷は解放され、私は自由の身となった。仕事を紹介されても、何もできなかった。何をしても熱が出た。

 何度目の高熱だろうか。夢の中にジャミル様がいらっしゃった。ジャミル様は、ジャミル様に相応しくない、崩れた建物のようなところにいらっしゃった。
、お前はいい子なのにどうして僕のところに来ないんだい?遅すぎるだろう。僕はずいぶんを待っているんだ。さあおいで、また歌を歌ってあげよう。」
 ジャミル様は、私の知っている優しい顔で、優しくおっしゃった。彼の後ろにはゴルタスくんもいる。ゴルタスくんは、しきりに首を振っている。一体、何を伝えたかったのだろう。夢の中のゴルタスくんに目覚めた私が聞いても意味は無いだろう。そんなことより、ジャミル様だ。ジャミル様が私を呼んでる。たとえそれが夢であっても構わない。そういえば、ジャミル様の中味のないお墓がどうなるのか、一向に話を聞かない。ジャミル様のお墓の中で死ぬことは、できそうもない。
 せめてジャミル様がいなくなってしまった近くでお供をしよう。私は、ゆっくりとそちらの方に向かいだした。夜のにおいは濃くなる。月は満月で、まるで私をジャミル様に導くよう。熱のせいか、まるで雲の上を歩くような感覚だ。