黄瀬くんの、困ったみたいな笑顔が好きだ。
 黄瀬くんを困らせるのが好きなわけじゃないけれど、しょうがないなって許してくれるのが、とても好きだ。まるで花のようにほわっと咲く黄瀬くんの笑顔は、見るとこちらもほっこりしてしまう。
 黄瀬くんは私に甘い。それはもしかしたら、他の女の子にもそう思わせているのかもしれないけれど、私はそれでも構わない。私がそう思うのなら、それが私の世界の真実だ。



 先生の自己紹介は、退屈だ。
 教室をこっそり見まわしてみる。クラス替えのあとの教室は、1年生の頃よりは幾分緊張がないものの、ドキドキする。まだ馴染みのないクラスメートや去年からのクラスメート、1年の時、隣のクラスにいた子なんかが微妙な割合で配合されたこの教室には、なんとなしに桜のにおいがする気がする。窓の外にはちらちらと桜が舞うのが見える。通りで桜のにおいがするはずだ。この桜が散るころには、きっと毛虫除去の薬剤が密かに撒かれることだろう。桜の木に触らないように、なんて注意が終わりの会にでもなされるだろう。薬剤が撒かれた後も、あの、緑色のげじげじした毛虫が猛威を振るうさまが目に浮かぶ。あれは何時まで経っても痛痒い。私はちょっとぞっとしながら、今は綺麗な桜を見る。
「はーい、じゃあ今からプリント配るから、名前書いてねー。」
 私が窓の外を覗いている間に、先生の話はだいぶ進んだようだ。前の子から配られたプリントを見ると、「自己紹介」の文字。どうやら、先にプリントに書かせて、自己紹介をさせるつもりらしい。ありきたりな「長所」、「趣味」、「部活」、「今後の抱負」の文字に苦笑する。長所なんてないし、趣味もないし、部活も、今後の抱負も私にはない。なんでありきたりな「短所」はないんだろう。みんなすぐに書けるものなのかな。少し周りを見渡すと、隣の席の男の子はなんだかあたふたしながら、筆箱の中を漁る男子一名。彼のプリントを見ると、名前すら書かれていない。
「シャーペン、忘れちゃったの?」
 私がこっそり言うと、困ったみたいな笑顔で、そうなんス、と一言。筆箱を持って来ているのに、シャーペンをピンポイントで忘れるとか珍しい。可哀想にね、というだけで済ますほど私も鬼じゃないので、素直にシャーペンを一本貸してあげる。
「ありがとッス。」
 爽やかな笑顔でお礼を言う。
「どうせ一か月お隣さんだろうし、私が何か忘れたら、文句言わずに貸してね。」
 もちろんスよ!と答える顔もまた、爽やかだ。そしてすぐさまプリントにガリガリと書き込んでいく。私は無難なことを考えるのに必死だ。
 その日知ったことは、隣の席の子は黄瀬くんといって、モデルをやってるということだった。私は何を自己紹介で言ったのか、自分の順番が終わるとすぐさま忘れてしまった。



「黄瀬くん、あのね、今日家庭科でクッキー作ったの。あげるねー。」
 家庭科の実習があったクラスの女の子は、ほとんど黄瀬くんにそう言って渡す。黄瀬くんは、それをいつも嬉しそうにお礼を言ってからもらう。今や隣の席でもない私は、それを眺める。黄瀬くんがバスケ部に入り、今は1軍だと本人から聞いた。うちの学校のバスケ部は強いそうだ。バスケに興味がないので、そう言われても「あ、そうなんだ」で終わってしまう無愛想な自分が憎い。それでも、最初の1カ月で私と黄瀬くんはとても仲が良い友達になっていたので、黄瀬くんは自分のことをたくさんしゃべった。私はそれに相槌を打つ係で、だいたい私たちの会話は毎度そうなっていた。黄瀬くんはモデルで、とてもモテるけれど、私は特にいじめや嫌がらせにはあっていない。地味な私と輝くばかりに目立つ黄瀬くんとでは、到底釣り合わないので、誰もそういったことをしてこないのだと思う。
さん!俺にクッキーくれないんスか?」
 そうこうしてる間に黄瀬くんは私に貢物をよこせと言いに来た。
「あげない。私のおやつだから。」
 そう言うと、黄瀬くんは「ケチッスね。」と言う。その割に困ったような笑顔をするのだから、不思議だ。こんなことを繰り返すから、色んな人に期待させてしまうんだと思う。私は、クッキーもあげずに、黄瀬くんを困ったような笑顔をさせられることにどうしようもない優越感を見出してしまう。そんな自分に苦笑しかできない。黄瀬くんには、彼女がいるのだ。最近できたらしい。前にプリクラを見せてもらったら、今時の、とてもかわいい女の子だった。私の入り込む隙なんてどこにもない。

「今日は、スタメンの座をかけた勝負に挑むつもりなんスよ。あいつなら俺でも勝てる気がする。」
「黄瀬くんって、この前バスケ始めたばっかじゃなかったの?」
「そうなんスけど、俺なんでもできるイケメンだから大丈夫!」
 相変わらずの爽やかな笑顔だ。まぁ、黄瀬くんがそう言うのであれば、そうなんだろう。きっと彼女が出来たから、彼女に良い恰好がしたいんだ。負けたところで黄瀬くんのデメリットは無いに等しい。だって始めたばかりなんだから、負けて当然といったところだ。私はそんなことは言わないで、頑張ってね、と言った。けれど、こんなふうに黄瀬くんがわざわざ私に今日の予定を宣言することはいままで無かったことなので、予定もないことだし、黄瀬くんの応援に行くことを決めた。



 試合の結果は、端的にいえば、黄瀬くんは、バスケがよくわからない私にもよくわかるほど、ボロ負けをした。
 そして、何よりも一番黄瀬くんの心を傷つけたのは、彼の愛する彼女が黄瀬くんを裏切った事実だろう。



 黄瀬くんは、あれから少しだけ、考え込むようになった。いつも通り、色んな女の子からたくさんのものをもらうけれど、その時の笑顔は、作り物の、いつか見た雑誌と同じような顔になっていた。
 そして、黄瀬くんは私に話しかけることも少なくなった。前なら一日一回は黄瀬くんのどうでもいい話を聞かされていたけれど、その時間は、黄瀬くんの考え事に充てられているように思う。
 日直で、たまたま黄瀬くんと一緒になれた今日も、相変わらず黄瀬くんはぼんやりしている。黒板は消してくれるけれど、私たちは意思疎通を最低限しか行わない。それでも、少しだけ残った日誌を書く間、黄瀬くんは待とうとしてくれているようだ。ぼんやりと窓の外を見ている。窓の外の桜の木は、もうほとんど葉っぱを残していない。黄瀬くんはどういった気持ちで、あのほとんど葉のない桜をみているんだろうか。
「ねぇ、さん。さんは、俺の事、どう思うッスか。」
 顔を上げれば真剣な顔でこちらを見ている。
「え、うーん。かっこいいと思うよ。」
「それは知ってるッス。他に。さんは、俺と仲良いから。」
 変わらず黄瀬くんは、真剣な、思いつめたような顔でこちらを見る。黄瀬くんが、何を求めているのかは正確にはわからないけれど、苦しんでいることはよくわかる。彼の心が、少しでも癒されるのであれば、今ここで言ってしまっても構わない。
「意外に一生懸命なところとか、かっこいいと思う。そういうところ、好きだよ。」
 上手に言えないけれど、私の精いっぱいの告白。照れて書き終わった日誌を見る。黄瀬くんは何も言わない。そろそろと黄瀬くんを見た。見てしまった。

「あんたも、俺がモデルだから、俺がかっこいいから好きなんスよね。なんつーか、幻滅したわ。」
 聞いたことのない、冷たい低い声。そうじゃない、と伝えようとしても、そのことばを黄瀬くんは鋭い目で拒絶する。
「言い訳とかいいから。」
 黄瀬くんの目は、もはや私を捉えていない。どこか遠くを見つめている。私が告白をしたのに、私を通して、誰かを責めているとしか思えない。私は、なぜ、代わりをさせられているのだろう。私は、彼女じゃないのに。
 泣くことも許されない空気に、耐えられない。とにかく落ち着こうと、日誌を持って、教室を出ようとドアを開ける。廊下の空気は、驚くほど冷たい。その空気が教室に入るのと同時に、
「あ、もう話しかけないでくれる?まじウザいんで。」
容赦なく追い打ちをかけられた。私は、聞こえないふりをして、ぴしゃりと教室のドアをしめた。

 それでも私は、黄瀬くんの、もう私には向かないだろう困ったみたいな笑顔が好きだ。