すべてに疲れて果てている。そう、身体も心も言っていて、私はどうすることもできない。身体も心も、私のものなのに、言うことを聞かないのだ。
 きっかけは、本当に些細なことだった。誰も自主的に動かない文化祭の準備に、運営委員の私が、致し方なく動いた。指示も出した。疲れ果てていた。そのせいで、一度だけミスを犯してしまった。単純に指示を出し忘れたのだ。だけどそのせいで、1時間も遅く帰ることになってしまった。誰も私を責めないけれど、明らかに雰囲気が私を責めていた。無理矢理その場を凌いで、今日を終わらせたものの、クラスメイトと別れてから、涙が止まらない。私からしたら、みんなが自分のできることを考えて動いてくれてもいいのでは、なんて思ってしまう。そんな風に誰かを責める自分も嫌だった。
 電車でしか、泣ける場所はない。学校で泣くのは癪だ。家に帰ってから泣けば、家族に心配をかけてしまう。駅から家までの間に、泣きやまなくちゃいけないから、結局泣けるのは電車の中だけなのだ。電車の中でいくら泣いたって、誰も気にしないだろう。誰も気にしないのなら、それは、私にとって誰もいないのと同じことだ。だから、嗚咽も気にしない。今しか泣けないのだから。

「大丈夫ですか。」
 自宅の最寄駅にもう少しのところで、急に声をかけられた。びっくりして涙が引っ込んだ。相手を見る。えらくきれいな男の子だ。なんというか、透明感のある、綺麗な男の子。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
 無理に笑って、お礼を言うと、男の子は困ったような顔になった。
「全然、大丈夫そうな顔じゃありません。」
 私、嘘へたなのかな、と思いながらも、実際彼の言う通りだから仕方がない。気まずくて、少し下を向くと、また涙と嗚咽があふれ出しそうだったから、唇を噛んだ。だらしない私の両目は、また涙で視界が歪む。手で涙を拭う。こっそり拭うとか、器用なことは、今はできない。
 駅についた。まだ、涙は消えない。これから泣くのを我慢しないと。私が降りると、ちょうど一緒の駅らしく、男の子も降りたらしい。
「あの、よかったら、これ、使ってください。」
 そっと、ハンカチを渡された。確かに私、女のくせにハンカチ持ってないけど、知らない人から借りるわけにもいかない。
「でも、わ、わ、た、かえせな、」
 また泣き出してしまったから、うまく言葉がでない。声を出そうとすると嗚咽が邪魔をする。
「大丈夫です。ハンカチ、あげます。」
「で、も、せ、洗濯、」
「大丈夫ですから。僕は今、差し迫ってハンカチ必要じゃありません。」
 今度こそ、困ったような顔をして、立ち去ろうとする彼の制服の裾を引っ張る。そんなの、私が困る。
「でも、せんたくして、きちん、と、かえし、たいです。」
 少しだけ、話し方がマシになった。すると、男の子は、じゃあと私の目の前で本からしおりを抜き取って、そこに何かを書き込んだ。
「これ、僕のメールアドレスです。元気になったら返してください。ちゃんと元気かどうか確認します。」
「ありが、とうございます。」
 だいぶ呼吸が落ち着いてきて、やっとまともな言葉になった。そのことばを聞いて、男の子は優しい顔で、それじゃあ、と駅から去って行った。あの制服、たぶん、新設の誠凛だろうなぁ。優しい彼のことを思えば、無理に我慢せずとも、涙はひっこんだ。



 家に帰って、本当は彼にお礼のメールをしなくちゃいけないと思いつつも、お風呂に入って、ベッドに横になると泥のように眠ってしまった。



 次の日の私は、案の定目が腫れてパンパンになっていた。そんなことで学校を休むわけにもいかず、無理やり重い身体と目を起こして、学校に向かった。
 学校では、もちろん誰も私のことを気遣うひとはいなかった。今日は眠そうだねーと言われるだけだ。私に興味がないんだと思う。私が心配されないように、怒りがわからないようにしているだけなのに。本当に意味のわからない拗ね方だ。それでも、昨日私を気遣ってくれた、名前も知らない彼を思うと、頑張れた。



 帰りの電車で、やっと彼にメールを送ろうと思った。少しは元気になったし、お礼も言いたい。

題名:先日ハンカチを貸していただいたものです
本文:こんにちは。先日はハンカチを貸していただき、ありがとうございました。ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません。明日以降ならお返しできます。ご都合のよろしい日時をお教えください。
追伸・この間は、しおりまで奪ってしまって本当にすみませんでした。

 固すぎるかもしれないけれど、メールを送った。身勝手だけれど、すぐさまメールが返ってくることを望みながら、宿題を始めた。ちょこちょこ携帯を覗き込み、メールの問い合わせを何度もするから、いつもの倍くらいの時間をかけて、宿題を終えた。その後、携帯を枕元に置いていたけれど、いつのまにか眠ってしまったようだった。



 次の日の朝も、連日の文化祭の準備からの疲れで、瞼が重かった。携帯の着信ランプがチカチカと輝いている。まるで、サンタクロースから贈り物でももらった子どものように、私はドキドキしながら携帯を開いた。

題名:Re:先日ハンカチを貸していただいたものです
本文:おはようございます。昨日は早く寝てしまったので、返信遅くなってしまいました。ごめんなさい。
この前と同じ時間帯でよければ、今日でも大丈夫です。もっと早い時間帯の方が良いですか。
追伸・読み終わった後ですから、しおりは気にしないでください。

 なんだか、文章からも優しさが滲み出る人なんだなぁと意味のわからない感動を覚えてしまった。じゃあ、今日あの時間の電車の、あの車両に乗りますね、とメールで返信して、それから私はやっと布団からのろのろと這い出た。それにしても、彼のなんと朝の早いことか。朝に弱い私とは正反対だ。



 放課後、私はいつもより少し早めに文化祭の準備を切り上げた。まだ少しぎこちないけれど、みんなとの関係は、ほぼ前と同じ状態に戻ってる。たぶん、何も言わなくてもお互いに譲歩しあったからだ。ただ、それでも前と全く同じ状態に戻らないのは、もしかしたら私の気持ちのせいかもしれない。なんだか、すごく気持ちがそぞろなのだ。彼は、迷惑に思ってないのかな、とか、いろいろなんだかそればっかりが気になってしまう。
 緊張しながら、電車に乗っていると、いつの間にか彼が横に座っていた。
「わぁ、ご、ごめんなさい。気づかなくて。ちょっと考え事していて。」
「大丈夫です。僕、影薄いので。」
「いやいや、そういうわけじゃないんです!本当にごめんなさい。」
 本当に気にしないでください、とジェスチャーまでつけて言う彼に、これ以上謝るわけにはいかない。
「あの、この前、本当にありがとうございました。」
「これは……?」
「そんな大したものじゃないですが、お礼です。」
「気にしなくても大丈夫だったんですが。でも、せっかくだから、いただきますね。ありがとうございます。ここで開けても良いですか。」
 私が頷くと、彼はゆっくりと包装紙を開ける。あ、丁寧なひとなんだ。びりびり破かない。
「きれいなしおりですね。ありがとうございます。」
 私は小さく、いえ、こちらこそありがとうございます、と答えた。気に入ってもらえてよかった。金色の、小さな葉っぱのしおり。男の人が、どういうしおりを使うかわからなかったけれど、なんだか、綺麗な彼には、このしおりが似合うと思ったのだ。本当は、彼のしおりをそのまま返せばいいのだけれど、それは申し訳ない気がしたし、なにより、少し勿体ないような気がしてしまったのだ。
 彼はさっそく使うつもりらしい。本をかばんから取り出した。
「新しい本ですか。」
「はい。以前の本はもう読んだので。おもしろかったです。」
 それから、これは、私にとって意外だったのだけれど、静かそうな彼は怒涛の勢いで話し始めた。前に読んでいたのは、芥川龍之介の『河童』で、河童の世界の不思議なおもしろい話(たとえば、生まれる前に親から「お前はこの世界に生まれたいか」と聞かれること)や、不気味な話(リストラされた河童は殺されて食べられてしまうこと)を、教えてくれた。本の名前は聞いたことはあるけれど、読んだことのない私は、いつの間にか彼の話に引き込まれてしまって、気づけばもう、いつもの駅に着いてしまっていた。
「すみません、すごくしゃべってしまいました。」
「いえ、あの、とってもおもしろかったです。図書館で借りて読みたくなりましたし。」
「それなら僕が貸します。メールで都合のいい日を教えてください。」
 予想外の展開だ。それでも、彼にお礼だけして終わってしまうのはやっぱりなんだか勿体なく感じていたから嬉しい。
「ありがとうございます。あの、えっと……。」
「そういえば、名前、教えていませんでしたね。僕は、黒子テツヤと言います。黒い子で黒子。テツヤはカタカナです。」
「ありがとうございます。私は、です。あのこれからよろしくお願いします。って、なんだか変ですかね。」
 アハハーと照れ笑いすると、黒子くんはくすりと笑って、
「こちらこそ、よろしくお願いします、さん。やっぱり、さんは元気なほうがいいです。」
と、いうもんだから、私の顔は真っ赤になった。とりあえず、明日からはもっと頑張ろう。明日からは、学校のみんなともちゃんと一緒に頑張れるはず、と根拠もなく黒子くんの笑顔で思えた。