朝の、清々しい空気が好きだ。誰もいない教室で、静かに本を読むのが好きだ。その間、私はこのクラスのすべてになれるし、私は誰よりもこの教室で幸福になれる。みじめさのかけらもない。
 次に好きなものは、二番目にやってくる帝人くんが教室に入ってくる瞬間だ。いつも、帝人くん以外だったらどうしよう、って胸が痛くなる。だけどほとんど私のあとに来るのは帝人くんだ。きっと、帝人くんも自分の日常を変えたいなんて思わない。いつもの時間、いつもの電車、いつもの……。
 私は、いつも通りが好きだ。いつまでもこのままでいたい。私はいつまでも高校生でありたいし、いつまでもこの朝一番の平穏を守りたい。
 朝一番に、誰よりも先に帝人くんを見て、「おはよう」を言って、三番目の誰かが来るまで、帝人くんを独り占めにする時間が好きなんだ。私にはその日常が何物にも代えられない宝物なのだ。

 帝人くんについて、みんな彼は園原さんが好きだって噂している。みんな帝人くんと園原さんが付き合っているんじゃないかって囁き合う。
 正直に言うと、帝人くんはきっと園原さんが好きなんだと思う。だけど、帝人くんと園原さんが付き合っているかどうかは、私にはわからない。
 確かにこの限られた朝以外、帝人くんと園原さんはよく一緒にいて、たまに一緒に帰っている。それを遠目に見たことがある。その日は気になって気になって、泣きながら眠れない夜を過ごした。朝が来なければいいと思った。私のささやかな、でも大事な日常が壊れてしまうかと思った。けれど、次の日の朝も、何一つ変わらなかった。だから、きっと帝人くんも私と同じで何一つ変わらない毎日を、日常を愛しているんだと思う。
 私は、この日常が何よりも大事だ。朝一番に帝人くんに会うのは、園原さんじゃない、私なんだ。私はそのことに優越感を感じながら毎日を過ごすのが好きなんだ。

 少しずつ変化していく主人公とヒロインの恋の物語を目で追いながら、帝人くんを待つ。じっくりと一行一行読んでいくと、二人の心の軌跡が手に取るようにわかる。この作者の小説が大好きで、今読んでいるこの作品が、今出ている最後の本だ。きっと、今日の帰りにはこれは読み終わってしまうだろう。丁度、二人は最後の急展開を迎えている。この作者のことだから、たぶん二人はなんだかんだできっとハッピーエンドだろう。

 ガラッと教室の扉が開く。あと数ページで読み終わるところだった。普段ならもっと早く帝人くんが来るのに。はやる気持ちを抑えながら素早くしおりを挟む。
「おはよう。さん。」
 帝人くんじゃない声で帝人くんじゃないクラスメートが私に挨拶をした。確かたぶん彼も結構早めに来るけれど、帝人くんほどじゃない。私は、内心かなり驚いていたけれど、そっとそれを隠して挨拶を返した。
 どうして、どうして、どうして――。帝人くんがこんなに遅い時間に来るはずがない。休みなんだろうか。風邪なんだろうか。お見舞いに行ったら迷惑かな。私の頭は帝人くんでいっぱいで、一行も本を読み進めることはできない。

 あと5分でが鳴る時間に少し控えめに教室の扉を開ける音がする。大して期待もせずに目だけ向けると、そこには帝人くんがいた。
「おはよう、帝人くん。園原さん……。」
 私の挨拶は帝人くんだけに向けられたのだけど、それは果たして二人に伝わったのだろうか。どうして、今日はどうして二人なの……?
「おはよう、さん。今日も早いね。」
「おはようございます。さん」
 いつもの朝の時間なら、名前で呼ぶのにわざわざ私を苗字で呼ぶ帝人くんが憎らしい。当たり前の顔で一緒に教室に入ってきた園原さんが腹立たしい。たまたま帝人くんと一緒になっただけのくせに。
「どうして今日は二人で来たの?」
 私の怒りや憎しみはお腹の中をぐつぐつと煮ているけれど、それがわからないように涼しげな顔で帝人くんに聞く。
「クラス委員でこれから毎朝一緒にちょっと作業があるんだ。」
「そうなんだ。大変だね、竜ヶ峰くんも園原さんも。」
 帝人くんは、そんなことないよ、はははと少し私を迷惑そうに見ながら笑う。私は話をそれで切り上げて本に視線を戻す。二人はまだ一緒にクラス委員の話をしていて、園原さんはどうかわからなけれど、帝人くんはこれ以上にないぐらい嬉しそうだ。

 どうして、私は帝人くんが私に乗り換えてくれるなんて思ったんだろう。私は、帝人くんのこと、園原さんより絶対好きだと思う。きっと、帝人くんを一番幸せにしてあげられるのに。

 私は二人に目をそむけて、本を読むふりをする。文字が目に入るだけで、全く意味をなさない。まるで記号だ。この本はもう読めない。私が読まない限り、二人が幸せになることはない。私を置いて幸せになる結末なんて知りたくない。


知らない結末