私は、長い間、神になりたいと思っていた。

 私のようなものは、100年経てば神になるのだと、いつぞやどこぞの人が言っていた。その時、私には、神とはなんなのかを理解できるほどの力がなかった。ただ、そのことばはえらく魅惑的に聞こえた。私は、神になれるのだと、なにひとつ疑問に思わず信じた。
 しかし、100年の間、たくさんの人の下を渡り歩いたが、私は神にはならなかった。今ならわかるが、私は誰からも愛されていなかった。ただ、高価なものとして、色んな人の手に渡っていただけだった。それゆえ、神になる資格を持てなかったのだろう。
 当時の私には、それがわからなかった。わかる力がなかった。ただ、自分は神になれると信じていたのに、なれなかったという思いだけが私を捉えていた。それから長いこと「神になりたい」と祈り続けた。
 いつの間にか、私の祈りは呪いに変わり、私は呪われていると噂された。私の思いだけが力を持ってしまったのだろう。私の思いにより、たくさんのひとが不幸になった。たくさんの人が死んだ。その間がどれだけ長かったかは、私にはわからない。ただひたすら、嘆き悲しみ、神になることを望んでいた。
 そんな私を、きっと、本物の「神」は見ていたのだろう。私は、ある人物の蔵に入れられ、そこから途方もない時間を過ごすことになった。私がここに来たときは整然としていたこの蔵も、私の呪いのせいか、はたまた違う要因なのか、瞬く間にたくさんのものの嘆きに溢れることになった。それからは、この暗い場所で、私の呪いも嘆きに紛れ、薄まってしまったようだった。

 私の近くに置かれた碁盤は偉く気高かったが、しかし、もちろん憎きネズミには彼の気高さも価値も考慮しなかった。彼が齧られるたびに凄まじい悲鳴をあげた。しかし、人には聞こえなかったのだろう。彼はただひたすら齧られるがままであった。そのうち、彼の身の内には、憎きネズミの巣ができた。彼はそれから、ネズミを罵ることをしなくなった。彼はネズミを愛し始め、そして――私たちにも、「死ぬ」ということばを使うことは許されるのだろうか。我々が「死ぬ」などということばを使うのは傲慢かもしれないが、しかし、できることならば、許していただきたい。――彼は、死んだのだった。
 彼の今際のことばは、こうだった。
「私は、このネズミたちを憎み、罵ったこともあったが、しかし、彼らこそ、私に本当の命を与えてくれたのだ。君は、私をいつも憐みに満ちた目を向けていたが、しかし、本当に憐れむべきは君らだったのだ。」
 私には、やはり、彼の言うことが理解できなかった。彼の、最期の強がりにしか思えなかった。
 しかし、私のすぐ隣の鏡台の中にいる、櫛は碁盤にこう言った。
「私には、あなたの言うことがよくわかるわ。あなたは幸せな最期を迎えるのね。羨ましいわ。私は、齧られることも、身に宿すことも無い。かといって崩れる身でもない。私は永久に、もうあなたのような幸せに身を任せることなく、彷徨うしかないわ。」
 そのことばが碁盤に届いたかどうかはわからない。ただ、碁盤はがしゃんと小さな音と共に崩れ落ちた。彼の愛したネズミたちは、彼の愛によって生き延びた。

 それにしても、櫛の言ったことばは意外だった。櫛は、我々この蔵のものにとって、特別な存在だった。彼女は、我々の中で唯一、神となっていた。彼女はその気になれば、人の形をとることができた。人と為った彼女は、それは美しく、緑の髪豊かな、色の白い妖艶な女性であった。彼女は、我々の憧れだった。
「あなたは、少し神になりかけているのね。でも、今のままじゃ、どれだけ時間が経ってもなれないわ。」
 いつだったか、碁盤が死んだあと、戯れに人の形を取った彼女は言った。それは、私にとっていかほどに残酷なことばだったかは、読者のみなさんにはおわかりだろう。
「なぜ、私は神になれないと思うのですか。」
 私は、怒りで興奮しながら聞いた。
「あなたは、使われる幸せを知らない。愛されることを知らない。それによる悲しみや辛さを知らない。」
 彼女はそう言って私を一撫でしたあと、櫛に戻った。人の形をとることは、とても疲れるようだった。
 私には、碁盤の最期のことばはもちろん、彼女のことばも理解できなかった。しかし、この暗い牢のような蔵では、考える時間だけはいくらでもあった。私は日がな一日中そのことばを何度もこころの中で反芻したし、私はここにいる間、この身に数度ネズミを宿したというのに、ついに理解することはできなかった。ただただた、わが身の汚れを悲しみ嘆くばかりであった。

 それからまた、ひどく年月が経った。私には、生まれてから人の間を転々とした間よりも長くこの蔵にいたように感じたが、しかし、それは私が退屈であったからなだけかもしれなかった。
 蔵の中で永遠とも思える時間を過ごした私は、いつの間にか、呪いを吐き出す力は全くなくなっていた。ただもうこの退屈な暗闇から抜け出したい、とだけ思った。



 そんなある日のことだった。蔵に光が入った。また、新たな哀れな仲間が増えるのかと思いきや、一人の幼い少女が、老人を連れて入ってきた。老人はえらく人のよさそうな顔をしていた。私の知っている老人とは違っていたが、どこか面影を残す人物だったように思う。その老人の、人の良さげに下がった目元と同じ目元を持つ少女が、私を指さして言った。
「わたし、これがいい。」
 私には、何を言われたかわからなかった。老人は、これはえらく汚れているし、こちらの鏡台はどうだ、とか、ほら、中に櫛が入っているよ、と言っても、少女は私を指さし、
「これがいい。これじゃなきゃいやだ。ちゃんとわたしがきれいにするから。」
と、頑なに言った。老人はやれやれ、といった感じで彼女に従い、私を蔵から連れ出した。櫛は、悲しげに私に手を振っていた。

「わたしの名前は、キヨよ。よろしくね。わたし、今日で5さいになるの。明日からあなたはお花を活けるのよ。」
 奇妙な少女だと思った。ものである私に、自己紹介したのだ。今まで、そんな人に出会ったことはない。私は、彼女のおもちゃにされて壊れるのだろうと思った。
 しかし、私の予想に反して、彼女は私を丁寧に優しく洗い、乾かし、そして彼女の言った通りに、その翌日から私に花を活けた。花を活けるためのものでありながら、恥ずかしながら、私はこの時まで花を活けたことがなかった。私は初めて身を水で満たし、花を入れた。花たちは、良い香りがして、彼女たちは始終おしゃべりをしていた。こんなに幸せなことがあるとは思わなかった。ただ、彼女は幼いし、いつ自分が壊されるかわからないと恐怖もした。彼女の興味が薄れたら、私は壊されるか、あの辛い蔵に戻されるかのどちらかだろうと思ったからだ。

 キヨに出会ってから、私は毎日身に花を活けた。私の予想は、嬉しいことに外れたのであった。花たちは、いつも私の身を華やかに彩った。しかし、彼女たちの命は驚くほど短かった。私の知る、どの生き物よりも短かった。活けられたばかりの彼女たちは、それこそ華やかに囁き合い、芳香を放つが、日が5回も登る頃には、驚くほど衰えた。キヨは、そんな花たちに、お別れの挨拶をして、彼女たちを無情にもゴミ箱に捨てた。けれど、花たちはキヨを恨むことなどなかった。私には花たちの気持ちが理解できなかった。だから、一度、捨てられた後の花たちに尋ねたことがある。なぜ、キヨを恨まないのかと。
「私たちはこうなる運命だもの。愛するひとがひととき幸せに私たちを楽しんでくれればそれでいいわ。それより辛いことは、愛する人が――。」
 彼女のしわがれた声は、キヨがドアを開ける音でかき消されてしまった。彼女が言わんとすることは、私にはわからなかった。やはり、私には力が足りなかったし、何より、推測できるほどの経験がなかったことが原因だろう。

   私が花たちに何を聞いたかなど知る由もないキヨは、それからもずっと花を活けた。小さなときは、活けるのも一苦労だった彼女は、すくすくと育ち、花を活けるのも上手になっていった。私は毎日活けられたり、水を換えられることを楽しみにするようになっていた。キヨは私を今までのどの持ち主よりも大事にしてくれていることがよくわかった。ただ、彼女の目線がいつも花たちに向かっていることが、少しの不満を私に与えた。花たちの寿命を考えれば、それは仕方のないことだったし、何より私は花を主役にするためのものであるから、当然といえば当然であった。それでも、少しでもキヨに私を見てもらいたかった。構ってほしかった。それを伝える術は、何一つ、私にはなかった。

 キヨは、それからも美しく育った。彼女の美しさは花も霞むくらいだと思った。初めて活けられた時のあの感動は今でも忘れられないが、それでも私はキヨの方が美しいと思った。それは今でも変わらない。キヨが結婚した時、私はどれだけ彼女の夫を妬んだことか。キヨの美しいあの指が、あの男に盗られると思うと気が気ではなかった。キヨの優しいまなざしが、私や花たちよりもあの男に奪われることが苦痛だった。私の思いは募るばかりだった。花たちは相変わらず、キヨに優しかった。キヨの夫にも優しかった。キヨが夫にばかり目を向けて、私を忘れたらどうしようかと思ったが、そんなことは起こらなかった。キヨは、夫にも、花にも、私にも優しかった。それでも私は、キヨの夫が帰ってきたら鳴らすチャイムの音が嫌いだった。
 いつしかキヨも身ごもり、子を産んだが、それはそれは可愛い子どもたちだった。キヨに似ていた。いつぞやの老人の目元を、子どもたちも継いでいた。私は、やっと、そういえば、私を最後に買った男は、優しい目をしていたことをぼんやりと思い出すことができた。キヨは、子どもの世話で忙しくても、私と花たちの世話を忘れたりなどしなかった。私と花たちは、キヨの子どもも優しく見守った。私は相変わらずキヨの夫に嫉妬したが、しかし、幾分キヨの夫に対して嫌な気持ちは薄らいでいた。

 キヨの子どもたちが幾分大きくなってくると、子どもたちはキヨの下から去って行った。その理由を私は知ることはなかった。私はそのころ、ちょうど玄関にいたので、大事な話は何一つ聞けなかった。それぞれがある日突然出て行った。
 それからさらに少しして、たくさんの人がキヨの家に押し寄せた。キヨは、黒い服を着て、疲れた顔をしながら、たくさんの人と話していた。子どもたちが帰ってきたときは、いつも夫と嬉しそうにしていたのに、この時は笑顔ではなかった。子どもたちも暗い顔でしくしく泣き続けていた。たくさん訪れていた人が一挙に帰っていき、2、3日してから子どもたちもこの家から去って行った。子どもたちを送り出したあと、キヨは、一人崩れるように玄関で泣いていた。その涙をぬぐうことは私には不可能で、キヨの涙がこぼれ落ちるのを見るしかなかった。おしゃべりな花たちは、一生懸命キヨに「泣かないで」と囁いていた。私は何も言えなかった。キヨには私たちの声が聞こえないことを、知っていたからだ。

 キヨは、亡霊のようになってしまった。私たちの世話もせず、花は私の身の中で死んだ。あれほど美しかった彼女たちは、キヨが世話をしなければ、これほど汚くなってしまうのかと思った。キヨはめんどくさげに彼女たちをゴミに捨てた。私からは異様な臭いがするようになったが、キヨは私のことをそのままにしていた。私はキヨを責める気にはならなかった。キヨはいつも泣いていた。そんなキヨに、世話をしてくれなどと言えようもなかった。たとえ聞こえなくても、キヨにそんなこと言えなかった。
 キヨはチャイムが鳴ると、何か期待するように玄関に向かうようになった。そして、誰かが来るたびに、密かに落胆しているようだった。そんな自分を馬鹿にするように笑うキヨは、見ていて痛々しかった。キヨの悲しみを癒してあげれるものになりたかった。神じゃなくても身がくずれてもいいから、キヨが元のキヨになってほしいと思った。たとえ私が人になってもキヨを救い出すことはできないとわかっていた。キヨの悲しみを癒せる人の帰宅を初めて祈った。チャイムは鳴ったが、帰ってこなかった。いつしか私はキヨと共にチャイムが鳴れば落胆するようになった。身の内にあった水は乾ききっていた。

 数年の月日がキヨを徐々に元気にしていった。キヨは少しずつ表情を取り戻した。
「今までほったらかしにしてごめんね。今日からまたよろしくね。」
 キヨは幼いときのように私に話しかけて、綺麗に洗ってくれた。私の身にこびりついた花の屍は洗い落とされた。私はまたきれいな水を身に入れ、花と共にいることになった。花たちは、キヨが庭で育てたものらしく、いつもそれを自慢していた。私は生まれたときからキヨと共にいることを羨ましく思ったが、しかし、私もキヨから生まれていたのであれば、これほど大事にされなかったであろうから、これもまたよいのだと思えるようになった。キヨに育てられた花たちは、今までの花以上に美しく感じた。キヨの美しさが、花たちにも伝播したのだと思う。

 キヨの手は、花たちを育てるためにか、徐々にしわしわになっていた。キヨは相変わらず美しかったが、花の活け方は、昔の方が繊細だったように思う。しかし、豪快に活けるキヨもそれはそれで美しく感じた。要は、キヨであれば私はどうでもよかったのだ。
 私が、キヨのその豪快な活け方や、手のしわが、老いによるものだと気付くまでには時間がかなりかかった。キヨはいつでも美しかった。今の、老いに蝕まれたキヨよりも、悲しみに暮れるキヨのほうがよほど元気がないと思っていたのだ。


 私は、馬鹿なのだ。何故神になれなかったか、今ならよくわかる。神になれるようならば、キヨの体調の悪さを、なぜ、気づいてあげられなかったのだろう。

 キヨが久々に来た子どもを出迎え、キヨの子どもがその子どもを庭に連れ出しているとき、キヨも様子を見に外に行こうとしたのだと思う。それなのに、キヨは私の前でずるずると倒れてしまった。ゆっくり倒れたせいで、音も鳴らなかった。花たちは一斉に悲鳴を上げた。
 苦しげな呼吸と胸を抑えるキヨを、私はまた、どうすることもできないのだろうか。あの時と違うのは、彼女の頼りになる子どもたちのうちの一人が、すぐそこに、扉の向こうにいることである。花たちは、短い生の間ぐらいは、幸せにしているキヨを見ていたかったのに、別れなど知りたくない、置いて行かれたくない、と我が身を嘆く。その声がうるさい。しかし、人に私たちの声が聞こえないことなど私は痛いほど知っていた。
 キヨを助けるためにできることは一つしかないと思った。私は花たちに手短に謝り、そして、神に、少しだけ私に力を貸してくださいとお祈りして、台から飛び降りた。私はできるだけ大きな音を出して壊れるだろう。きっとあの聡明なキヨの子どもなら気づくに違いない。どうか、彼女が、私の愛するキヨが、少しでも早く助かりますように。


たとひ神になれねども