「わたしね、火星に行くことになったの。」

 僕は絶句した。まさか火星だなんて。エリカは無表情で、僕に言った。彼女のあまりの運の悪さに何も言えない。彼女を慰めることのできない自分の無力さのせいで、僕はガンガン痛む頭を抱えた。一番ショックを受けているエリカの前で、僕が泣くわけにはいかなかった。



 火星は、もともと食糧難を打開するために開発された星だ。開発当初は、「火星で稼いで!」をスローガンにCMで延々と流していたらしい。一攫千金を夢見て火星に旅立った人たちもいる。
 けれど、開拓者はいつだって過酷な生活を強いられる。アメリカ大陸時よろしく火星の開発も容易ではなかったらしい。そもそも火星はもともと温度差の激しい星で、だいぶ緩和されたにしても、今でも人が過ごしやすいなんてものとは程遠いような星だろう。
 そんなところで毎日開墾と研究なんてやってられないと、地球に帰ってくる人も多くなってくる。あまりにも帰ってくる人が多かったから、火星が住みやすくなるまでの帰還禁止命令と、犯罪者の流刑地になることを決定した法律が急遽可決された。ちょうど100年前だ。事実上、火星は見捨てられたのに近い。むしろ見捨てたというより、奴隷にしたのだと思う。僕たちがいつか住めるような星になるまで、働き続ける奴隷だ。
 だから、今の僕たちの火星のイメージは、可哀想なパイオニアと凶暴な犯罪者がはびこる星だ。



「どうして、エリカが……。」
「当ったの……。」

 なんとかして口を動かせて聞けたのは、これだけだ。危険な星にどうしてエリカが行くことになったのか、知るべきだと思ったのに、こんな答えとは。
 エリカのお父さんは、政府のお偉いさんで、研究者のわりにうだつの上がらない僕の父とは違うはずだ。それなのに、どうして「当って」しまうのか。



 犯罪者を送り込んでも、食糧難は何も解決しなかった。だから、数年前から抽選で当たった家族はもれなく火星送りにされる。善良な市民が、一体火星でどうやって生きていけるというのか。
 本当は、今の火星がどんな世界か、僕たちには想像がつかない。100年前のイメージばかりが先行して、本当の「火星」はわからない。100年前のイメージが、僕らのイメージに直結する理由は、火星開墾計画後にほどなくしてエネルギー問題に直面し、映画やテレビなどの娯楽を新しく作れなくなってしまったからだ。僕らは100年前に生きた老人よりも質素な生活を強いられている。だけど、彼らがいなければとっくに僕らは絶滅していただろうし、先人の浪費を責める気にはなれない。彼らの浪費を責めるのは、僕らの親世代の役割だ。なんら良い思いをしたことのない僕らは責める気にもならない。これが当たり前なのだから。だから道徳や社会科の時間の「あの時エネルギーをあんなに浪費しなければ」とかいう悔恨の時間だけ、口先で責めるぐらいだった。



 少し時間が経って、冷静になってきた。それでも、僕は、エリカにやっぱり何も言えない。エリカが本当に望む言葉はすぐにわかる。だって僕たちはずっと一緒にいたから。だけど、言えない。一緒に逃げようだなんて。言ったことが政府にばれたら、僕もエリカも、二人の両親も火星に送られてしまう。それに、言ったとしても僕にはそれを実行する勇気なんてないのはわかっているから。

「あのね。わたし、リンゴ食べたよ。」

 諦めたように微笑みながら、僕に言った。
 普通、僕らの世代は、本物の食べ物というものを食べたことがない。支給される栄養食と栄養ドリンクで生きている。「リンゴ」は、火星に行く人が食べられる最初で最後の地球から贈られる最後の贈り物だ。

「リンゴ、わたし、オイシイものだと思ってたんだけど、なんだかカスカスで、しかも映画とかでみるよりもっと小さくて、シワシワだったよ。わたし、びっくりしちゃった。」

 エリカが無理に笑うから、エリカの目から涙が零れた。でも、なにも気付かないみたいに、カバンを漁って写真を見せてくれた。

「ほら、これ。映画と全然違うでしょ。」

 そこには、シワシワのリンゴが一切れ。しかも、黄色く変色しているし、大きさも僕の人差し指ぐらいしかない。映画で見るリンゴは、もっと大きくて、赤くて、中が白い。おいしそうに齧る時、果汁が飛び出るようにみえたのは、映画の演出だったのだろうか。

「ねぇ、わたし、」

 それ以上、エリカはなにも言わなかった。隠すことなく、声をあげて、泣き続けた。僕は、抱きしめてあげることもできない。一緒に逃げようと言えない卑怯者の僕ができることなんて、なにもない。本当はそばにいることも許されないかもしれない。それでも僕は、エリカの苦しみが少しでも癒せるように、ただ、傍にいたいと思ったのに。

「明日には、もう、行くから。今日が最後なんだ。元気でね。」

 ひとしきり泣いたあとに、エリカは僕を突き放すようにして、走って去って行った。



 監獄に入れられていたのは、果たしてどちらだったのか。シワシワのリンゴが意味するものに気付くのは、僕が火星に送られることが決まってからだった。それと同時に、僕は、エリカの好意も優しさもすべて無にしてしまったことに気付いて、火星行きが決まったメンバーの中で、僕だけが泣いた。