土曜日の昼下がりのカフェは、いつも通りだ。穏やかな光が天窓から降り注ぎ、適度な雑音とBGMが聞こえてくる。BGMはいつも同じ12曲がループしており、最後のトランペットの音が聞こえるジャズが、私の中でこの12曲の終わりとなっている。BGMは、カフェの中の雑音と混じりあって、なんとなく私を落ち着かせる。個室ではないけれど、テーブルは適度に離れているから特に問題はない。私たちは、土曜日の昼下がりの、サッカー部が終わった後にいつもこのカフェの一番奥に座る。

 克朗と私は、一年の時からずっと同じクラスだ。ただ、私たちはそれ以外に接点がなかった。私は単なる帰宅部で、接点なんてあるはずがなかった。それどころか克朗は期待された待望の新人として武蔵野森に迎えられ、私は成績でギリギリ奇跡じゃないかと塾の先生にさんざん言われた上での入学。よく考えれば、接点どころか私たちは真逆だったのだ。幸か不幸か、スポーツ推薦組は成績最下位グループと同じクラスとなる定めだったから、真逆の私は、成績も優秀な克朗と同じクラスでずっといられたのだ。
 そんな奇跡の重なりを、私は特に意識せずに一年を過ごした。地元の学校の友達は、なんてもったいない!と声をそろえて言ったけれど、なんといっても、もとから足りない頭だから、学校の勉強についていくので精いっぱい。誰それがかっこいいなどと言っている暇がなかったのだ。それに、そもそも私はサッカーにも興味がなかった。誰がサッカー部かなんて把握すらしていなかった。土曜日の午前のサッカー部の練習は、武蔵森の女子が黄色い声援を送る決まりでもあるんじゃないかと思うほどの賑わいをみせる。けれど、私は午前中部屋でごろごろ過ごし、昼過ぎからはこのカフェで本を読みながら、おいしい紅茶でほっとするのが、習慣になっていた。それが、私の唯一の楽しみだった。

 二年になってしばらく経った梅雨の土曜日。その日も丁度雨で、天窓からは柔らかい光が少しだけ入るものの、壁の照明だけで光を補っていた。カフェの前に季節ごとに飾られる花はちょうど紫の紫陽花で、紫陽花だけがこの雨を喜んでいるようだった。二年になったらなったで複雑になった勉強のせいで、私は相変わらずの成績をキープだ。すでに友達を作ることを放棄して、とにかく勉強についていけるように頑張っていた。どれだけ頑張っても無駄なこともあるもんだな、と思い始めてはいたものの、それでも自分なりに頑張り続けていたのだ。土曜日は、そんな私の宝物になっていた。雨の日は客が少ない。だから、雨の日は、雨音とBGMだけが流れるのが好きだった。ただ、雨の日の柔らかい光は、眠気をものすごく誘うので、それが唯一の悲しみだった。

「あれ?さん?」
 本を読みながら、少しうとうとしていたのか、カフェに人が入ってくるのに気付かなかった。声は当時まだ単なるクラスメートだった克朗だった。たまたま傘を忘れてこのカフェに雨宿りに来たのだと、彼は言った。どうやら一人らしく、少し恥ずかしげに一緒に座っていいか、と私に許可を求めた。私はもちろん、どうぞ、と言ってクラスメートとなって二年目にして、初めてお互いきちんと顔を合わせたようなものだ。ある程度簡単なあいさつを済ませて、話に困ったのかこう克朗は言った。
「本、読んでたのか?」
 私は、その言葉を聞いて、ある意味初対面の克朗に怒涛の勢いで今読んでいる本の素晴らしさを伝えた。中学でめっきり人見知りになってしまったけれど、もともと人見知りではなかった私は、もしかしたら話す相手が欲しかったのかもしれなかった。この時克朗に話しかけられるまで、ひたすら学校の勉強においてけぼりをくらっている悲しみから、せいぜい同室の女の子か、実家に帰った時ぐらいしか話すことがなかった。だから、本当にさびしかったんだと思う。よくノイローゼにならなかったものだ。もしかしたら、なっていたのかもしれないけれど。
 本に対してしゃべり続ける私に、克朗はとても驚いていた。友達もほとんどいない私を暗い人間か何かだとでも思っていたのだろう。賢いものなんて読めなくて、いまだに冒険ものだけど、それでも私はこの本をおもしろく思っていたから、克朗に無理やり貸したんだった。すでに数回読んでいるから構わない、と。

「ありがとう。それにしても、驚いたな。こんなにおもしろい人だったなんて。さんは、どうして学校ではピリピリしてるんだ?」

 そこで、私はいったん、克朗に打ち明けていいのかと思った。
 当時私の中で、克朗は完璧だった。正直これほど頭のいい人がなぜスポ薦なのか理解しがたかった。スポ薦だからスポーツもきっとできるのだろうと思っていた。
――それでも。私は、それでも久々に友人を作るという甘美に触れてしまった。きっと渋沢君は私のことを馬鹿になんてしないだろう。
 そう思って、私は勉強が苦手であること、間違いで入ってきたにしても頑張りたいことを、二年目にして初めてクラスメートに打ち解けたのだった。克朗は、それじゃあ俺が勉強を教えようと言ってくれ、そこから部活の練習がない土曜日の午後に、二人で勉強することになった。

 友達になってみると、完璧な克朗像は、徐々に崩れていくことになった。なんてことない、彼はわたしと同い年の普通の男の子だったのだ。普通…というには少し、流行に疎いところはあったけれど。成績も伸びて、なんとかクラスの平均ぐらいになった。克朗を通して、友達もできた。克朗がサッカー部だということもその頃初めて知った。校内で有名人だったそうだ。私は全く気付かなかった。本当に余裕がなかったんだと思う。気づけば克朗と付き合っていた。克朗と付き合うことでいじめられる――なんて漫画みたいなことはやっぱり無かった。みんな祝福してくれた。私はそれから土曜日以外も幸せになれたのだ。

 BGMが10曲目に入った。克朗は雑談から私たちの出会いや思い出を語る。私はできる限り話を脱線させる。できることなら、ずっと克朗と話していたい。私は直感的に気づいているのだ。会話が止まれば、きっと克朗は切り出してくるだろうから。もしかしたらあの可愛いマネージャーが好きになったのかもしれない。克朗は優しいから、きっと私が傷つかないようにと自分が悪いかのように、優しい嘘をつくだろう。今はまだ、克朗のその優しい嘘にのるか、大人を演じるか、みっともなく泣き叫ぶか、わからない。それでも、私はその確実に来る未来が、現実になるまで気づかないフリをし続けたいのだ。

「それでね、三上がね、」
 私は、中身のない内容を口から紡ぎ続ける。できるだけ私たちの思い出話が進まないように。私たちの思い出がたくさんあることを祈りながら。

トランペットが鳴り終わるまで