決戦の日は近づいてくる。



 私には、毎年数日、運命の日がある。私にとって、これは一種の試合であり、負けることのできない、むしろ決戦の日だ。たぶん、世の中のどの女の子にも同じような日があるだろう。事実、こういった日は、恋する乙女にとって、平等に与えられた決戦の日だ。ただし、私と違って、他の女の子たちは、その日に決戦を挑めば、大抵なんらかの結果を得るだろう。
 しかし、だ。私の場合、その結果は、今のところ得られていない。結果以前に本来の目的にまで到達できないのだ。つまり、告白ができない。まず第一の問題は、相手が難攻不落なのだ。絶対鈍いんだと思う。なんせ、相手は我が校が誇る守護神、渋沢克朗なのだから。
 私と彼の戦いは、中学1年生の、そう今日から2年前の7月29日にまで遡る。



 あの日、私は渋沢くんに、誕生日プレゼントと称し、クッキーをプレゼントしようと決めた。中学1年生の幼い私は、優しい渋沢くんのことを、ちょっといいな、と思ってのことだった。私は昔からお母さんに料理やお菓子作りを教えてもらっていたので、自分で言うのもなんだが、結構料理は得意だと自負していた。もちろん、その日のクッキーも上手にできた。たぶん、同世代の中でも12を争う手作りクッキーだったに違いない。星の形のクッキーは、可愛い袋に入れられて、綺麗なラッピングを施された。この時点で、絶対に他の女の子のプレゼントと遜色は無かったはずだ。
 それなのに。
 それなのに……。
 中1からすでにモテていた渋沢君が一人になる一瞬の隙を狙って、クッキーを渡すと、渋沢くんは、ありがとう、と言ってからおもむろにクッキーを食べた。
「うん、美味しいけど、少しサクサク感が足りないかな。」
 渋沢くんは、そう言って、もぐもぐと私のクッキーと私の料理に対する自尊心とを平らげたのだ。
 その日から私の地獄の特訓が始まる、なんて熱血料理漫画みたいなこともなく、私は意気消沈したまま、その日に実家に帰った。
 渋沢くんとうまくいくとはその時も、正直思ってはいなかった。ただ、できたら他の女の子よりもよく見てもらいたかったから、プレゼントしたクッキーだったのだ。そんなにたくさんの下心をスパイスに入れたつもりはなかった。

 うだるような暑さと、腐るほどある(だけど実際は腐らない)宿題に泣きそうになりながらベッドで転がっていると、お母さんがニヤニヤと入ってきた。
「ノックくらいしてよ。」
「したわよ。それより、これ、届いてたわよ。」
 私の頭の横にそっとハガキを置く。お母さんは相変わらずニヤニヤと笑いながら、意地悪い顔をしてそっと部屋を出て行った。
 もそもそと無理矢理手を動かして、置かれたハガキを見れば、「渋沢克朗」の文字。裏返せば、「残暑見舞い申し上げます」ということばと、クッキーの作り方のコツ。少なくともあともう少しは「クッキー」の文字と関わりたくなかったんだけれど、仕方がない。コツを読めば、確かに少し私に足りないところがあったのかもしれないと思い、久々に私はキッチンでまた、クッキーを焼いた。一口食べてみて、よくわかった。お母さんも、私のクッキーを食べて、ずいぶん褒めてくれた。渋沢くんのアドバイスは、適切だったのだ。私は、その日、渋沢くんにまた負けてしまったのだ。
 その時、思ったのだ。渋沢くんには、サッカーがある。それに、なんだかんだで成績だっていいことを私は風の噂で聞いていた。一方の私は、帰宅部な上に、成績も武蔵森では平凡としかいえない。それでも、今まで料理は少しばかりできると思っていたのに、それすら、私は渋沢くんに負けたのだ。それはなんだか悔しい。それにその時私にはちょうど目標がなかった。学校に行って友達としゃべるだけ。たまに勉強をするぐらい。そんな生活に、少しだけ疑問もあった。そこで、私は決めたのだ。渋沢克郎に文句なしで「おいしい」と言われるお菓子を作ると。

 目標を決めてから、私は毎日お菓子を作った。お小遣いはほとんど、お菓子作りの材料に消えた。毎日友達にも協力してもらいながら練習した。その年のバレンタインには、簡単なブラウニーをあげた。簡単だけど、簡単故に、味の良さをわからせようと頑張った。それなのに渋沢くんはまたもや私のブラウニーにケチをつけ、ホワイトデーには、ブラウニーを私にくれた。明らかにあてつけであるし、腹が立った。けれど、渋沢くんのブラウニーと一緒に入っていたレシピが素晴らしいのは、食べてみてよくわかった。私のブラウニーよりも美味しかったのだ。私は、そのブラウニーのレシピを吸収したのち、次のきたるべき渋沢くんの誕生日プレゼントを決めた。簡単なものがよくなかったのかも、とケーキにした。チョコレートで誤魔化すのはやめようというのが2年生の時のコンセプトだ。とはいうものの、寮のキッチンでは凝ったことはできない。レアチーズケーキに決めて、私は4月からまたレシピづくりに没頭した。友達は5キロ太ったと私を恨んだ。私も正直、ちょっと太った。そういった犠牲を払いながらも、その年もやはり渋沢くんに負けた。「美味しいけれど、何かが足りない」と言って、その年のお盆にまた、私にレシピにおまけ程度の残暑見舞いをくれた。足りなかったのは、ケーキじゃなくてケーキにつけた生クリームだったらしい。2年のバレンタインは、ゼリーを贈ったら、これは惜敗。おいしいとは言ってもらえたものの、ホワイトデーの渋沢くんのゼリーはその見た目で大きく私と差を広げていた。ゼリーの具に丁寧な細工を施し、まるで星が閉じ込められているような素晴らしいできのゼリーを、私はもらったのだ。



 そして、今年は。今年は、渋沢くんの実家が和菓子屋だと聞いたので、和菓子にした。しかも彼が一番好きという豆大福にした。理由は簡単。もしも渋沢くんが、もしくは私かもしれないけれど、どちらかが外部受験をしようものなら、これが最後の勝負になるかもしれないから、だ。もしも外部受験をするなら、もう、お菓子のあげあいなんてできない。和菓子がとても難しいのはよく知っている。今は、身をもって知ってしまっている。それでも、もしも、今年が最後になるのであれば、たとえ「美味しい」と言ってもらえなくても、渋沢くんが好きなものを食べてもらいたいという気持ちが勝ってしまったのだ。
 とは言うものの、結局今年も4月から地獄の特訓を重ねたのだ。和菓子を作るために、家庭科室を借りて作り続けたのだ。家庭科室を借りるために勉強だって頑張ってやったのだから、やっぱり渋沢くんに褒められたい。去年以上の努力をした結晶が、今、この紙袋の中に入っているのだ。
 さあ、今年の第一戦目の結末を見るべく、渋沢くんを探そう。



「渋沢、お前さー。いい加減なんとかしてやれば?」
 三上が呆れた顔で俺に言う。去年と同じセリフだ。だが、これは譲れない。
「俺は、最終的には和菓子屋を継ぐつもりなんだ。今から修行しないと、和菓子は作れないと思う。」
 はぁ〜っと三上は俺に溜め息をつく。
「それ、別に付き合ってからでもいいんじゃねーの。」
「だめだ。和菓子作りはそんなあまっちょろこいものじゃないんだ。それに、俺がサッカーをやってる間は、が俺の家の手伝いもするだろう。俺が遠征でいるとき、仕事に精を出せばきっと寂しくないだろうし、浮気もしないだろう?」
 何より、は自慢の妻になる予定だから、ここで妥協はできない。
「おまえ、絶対そのうち愛想尽かされると思う。つか、尽かされろ。」
「はっはっはっは。三上は何を言ってるんだ?でも、どんどんはお菓子作りが上手になってるからな。今年は本当にと付き合えるかもしれないな。」