まず驚いたのは、あの濃い1年間が、こちらの世界ではたった数時間しか経っていないことだった。たぶん、私の読書スピードによるのだと思う。だいたい3冊読み終わる程度の時間だった。私は、あちらの世界に行く前と同様、ベッドの上にいた。丁度、全てが夢だったかのように、私は、『デュラララ!!』を読みながら眠ってしまったような体だ。
 急にこっちに戻ってきて、私は混乱していたが、とりあえず読みかけのようになっている本を閉じた。表紙の静雄さんが目に映る。きっと、行く前となんら変わらない静雄さんだけど、今の私が知っている静雄さんはこの表紙よりもっと柔らかく笑うひとだから、別人に見える。
 私はそこで、やっと、もうどうすることもできないのだと、この薄い紙一枚の壁は越えられないのだとわかって泣いた。

 帰って来て少ししてから、私は抜け殻のようになってしまった。帰ってすぐは、まだよかった。私にとっては家族と会うのは1年振りだし、友達も久々で、全てが久しぶりで、なんとか気を紛らわすことができた。けれど、それもすぐに私の心を慰めなくなった。それほどまでに、非日常に、静雄さんに、私は馴染んでしまっていたのだろう。
 そして、あれほどまでに好きだったデュラを、私は帰ってきた日に全て本棚の奥に仕舞った。デュラに関するもの全てから目を背けるようになった。私にとって、もうそれは、楽しむための単なる物語ではなくなってしまったし、なにより彼のぬくもりを思い出すから、私は見ることすらできなくなってしまったのだ。もう永遠に会えないことはわかってる。紙一枚は何よりも分厚い壁なのだ。だから、私は静雄さんを忘れることに徹した。彼に関するものを思いつく限り部屋の奥に片づけた。

 それでも、静雄さんに関するすべてを取り除くことはできない。

 部屋に優しい月光が射す。今日は満月だ。もう寝ようと電気を消したのにこんなにも明るい。月は優しくて好きだ。思わず窓から月を見てしまった。
 露西亜寿司の帰りに静雄さんと一緒に見た月は、今、私が見ている月じゃない。だけど、月は月だから、私は月を見るたびに彼と月の下でした会話を思い出してしまう。本当にくだらない、話だった。お寿司のネタは何が好きか、とか、月のうさぎの話とか、今日はきれいな満月ですね、とか、月がきれいですね、とか。あの非日常のなかでの、普通の日常だったからこそ、心に残っているのだろうか。普通すぎて、こちらでも思い出してしまうのが辛い。
 もしも、これが普通の遠距離恋愛なら、携帯も通じるし、月を見上げれば同じ月を見ることができたと思う。携帯越しに、私が「寂しいね」とか言って、でも静雄さんはきっと強がって私を慰めるようなことしか言わないんだと思う。たとえ、今の私の予想に反する話題を二人で口にしていても、雲の位置が違っても、同じ月なのだ。月を遮る雲でさえ、私が見た雲を、静雄さんが少し経ってから見るのかもしれない。私が、ちょっと夢見がちに「雲が私を静雄さんのところまで連れて行ってくれたらいいのに」って言ったら、きっと静雄さんは苦笑しながらばーかって言ってくれると思う。そんなこと言いながら、きっと走って私の下に来てくれるんだろう。
 静雄さんは、優しいひとだ。誰よりも、私を想ってくれるひとだ。だから、私が悲しんだり、寂しがったり、こっそり泣いたりすると全力で走って来てくれた。向こうにいる時、静雄さんはいつだってそうしてくれた。
 だけど、今はいないから、私は月を見てしまったことを後悔しながら一人で泣くしかない。

!!」
 どれだけ泣いたのだろう。聞こえるわけがない静雄さんの声が聞こえる。
「聞こえてねぇのか!忘れたのか?!泣くんじゃねぇよ!」
 あまりにもしっかり聞こえるので、いないと思いつつ窓から外を見ると、――いた。電柱の下に金髪でバーテン服の夜なのになぜかサングラスをかけた男の人が。え、コスプレ?なんて疑う余地なんてない。声が、何より遠目でもわかるあの独特の雰囲気が、私が想い焦がれてならない静雄さんなのだ。
 静雄さんに返事をする前に、私はすぐさま静雄さんに会いに行く。部屋を出て、階段を下りて、玄関のカギを開ける。普段ならなんとも思わないのに、こんな行為すらまどろっこしい。急いでいるからか、いつもより鍵が開きにくい。
「静雄さん!!!」
「お前……。靴くらい履けよ。足痛いだろ?」
 私が思いっきり助走をつけて抱き着いても、静雄さんはよろけもせずに私を抱きとめる。静雄さんの声が、頭の上から聞こえるのは、彼の少したばこのにおいが混じる独特のにおいを胸いっぱいに吸い込むのは、それはもう、すごく久々だ。
「ねぇ、静雄さん。どうやってこっちに来たの?」
 言いたいことはたくさんあるけど、まずは聞きたかった。もしも、すぐに消えてしまうなら、私はきっと流されて静雄さんについていってしまう。薄情と言われてしまっても、この気持ちは抑えきれない。
「あー。わかんねー。なんか、が泣いてる気がして、走ってたらここにいた。」
 静雄さんの答えは予想外過ぎるし、どうすればいいのか私にもわからない。けれど、静雄さんがなんとかなる、と言うならなんとかなるんだろう。池袋最強の男が言うんだから、なにより私の愛する静雄さんが言うんだから間違いない。……たぶん。
「とりあえず、今後どうするかは置いておくにしても、近々お前の両親に挨拶したいと思う。」
「は!?」
 いやいや、ちょっと急じゃない?私はそこでやっと少し冷静になれた。静雄さんのことは好きだけど、向こうで一生住むのか、と聞かれたらまた悩んでしまう。だけど、天秤に乗ってしまうくらい、釣り合ってしまうくらい、流されてしまいそうなくらい、私は静雄さんのことが好きだ。
「もしかして、やっぱ、俺みてぇなのより、普通の真面目な奴の方がいいか?」
 私の沈黙を、すぐさまネガティブに受け取る。私は静雄さんのおなかに怒りのパンチを入れた。静雄さんは相変わらずで、ちょっと笑ってしまった。静雄さんは、私に怒りのパンチを食らってることに気づいていない。非日常があまりにも普通に私の日常に溶け込んでしまってる。
 静雄さんも私も、今後どうなるかはわからない。もしかしたらまた、薄い紙一枚に隔てられるのかもしれない。だけど、なんだかそれでもいつも通りの静雄さんを見ていると、きっと、なんだか大丈夫な気がしてきたのだ。静雄さんは本当に不思議なひとだ。
 静雄さんを焦らすためにも、今はこれだけ言っておこう。
「ね、静雄さん。月がきれいですね!」