正直に言うと、私は後悔している。この時代に留まるべきではなかったと。



「なにしてるの。」
 春草さんが私に尋ねる。春草さんは、突然の風にびっくりしたみたいだった。少し不機嫌そうにしている。
「花瓶の花を光にあてているんです。切り花も、光にあてると少し元気になりますから。」
 むっと暑かった部屋にそよそよと気持ちの良い風が入る。百合の花の匂いが風に乗って、部屋に満ちる気がする。
「これ…百合?」
「そうです!よくご存知ですね。今年はもう入荷しないだろうって花売りさんが言ってたので、ついつい買っちゃいました。」
「そうなんだ。ていうかさ、君さ、これぐらい、誰にでもわかるよ。君は俺がそんなこともわからないと思っているの。」
 拗ねた声で春草さんは言う。百合は、どうやらこの時代でも知られているようだ。私はまだ、たまにこうしてこの時代にあわないことを言ってしまう。そういう時、春草さんは嫌そうだ。というか、嫌なんだそうだ。私が彼の知らないところに行ってしまうような不安にかられるらしい。

「すみません。これで許してもらえませんか。」
 私は春草さんの手を握る。その細くて、かさかさした、指に、泣きそうになる。強く握り締めると、折れてしまいそうだ。
「そんなんじゃ満足できるわけがないだろ。」
 呆れた声で私を咎める。そしてそっと口づけをしてくれる。挨拶のような、優しいキスだ。よく、外すことなく唇にできるものだなぁと感心する。
「何黙ってるの。」
「いえ、別に。嬉しいなぁって。」
 まさか、よくもまぁキスを外さないよなと思ってるとは言えない。当たり障りの無い答えを言うと、春草さんは意地悪そうな顔で言った。
「君、俺が目も見えないくせによくもまぁ接吻を外さないなとか、考えてない?」
「え、いやいや、ま、まさか。」
 私はどぎまぎと目を泳がす。そんな私の手をぎゅっと握りしめて、
「君、本当に嘘が下手だよね。俺は君のことなら目が見えなくてもわかるよ。どこに唇があって、どんな形でなんて、君のことなら俺の目に焼き付いてる。当たり前だろう。」
 そう言って、また私にちゅっとキスをする。いつまでもこんな日々が続けばいいのに。穏やかな風の入るこの白い部屋で、花の香りを楽しみながら、二人でゆっくり過ごすのだ。

 春草さんは、先のことについて何も言わない。少しずつ衰える体力や、苦しみや痛みで、今後どうなるかわかっているように諦めてしまっているのかもしれない。
 私は諦めたりなんかできるわけもない。だって、春草さんの目は一時的なものだって、以前お医者様がおっしゃった。鴎外さんの勧めてくれたお医者様なんだから、きっと一流だ。そんな人が誤診なんてするはずがない。

 だけど

 だけど、もしもあの時の診断が誤診で、春草さんの目にもう何も映らないのだとしたら、私はこの時代に来たことを恨むしかない。
 この時代に来なければ、春草さんに出会うこともなかった。そうすれば、愛しいなんて気持ち、知ることもなかった。
 現代に戻っていれば、こんな辛そうな春草さんを見ることも、知ることもなかった。

「家に帰らないで、俺と一緒になったこと、後悔しているの?」
 見えているように春草さんは言う。私を慰めるように抱きしめて、頭を撫でる。
「残念だけど、俺は全く後悔してないよ。鴎外さんを出し抜いて、君と一緒になって、一生を使って君に意地悪をして、しかも最期は見届けてもらえるんだから。」
「そんな性格の悪い人はそうそう死にませんよ。」
 私は強がりを言う。
「へー。俺と一緒になったこと、後悔してないって言わないんだ。」
「そんなこと」
 無いとは言えない。
「俺がいなくなっても、には苦労させないから。安心して。」
「そういうことを気にしてるわけじゃありません。私を後悔させたくないなら、私より長生きしてください。」
 絞るように声を出して言っても、春草さんは私の頭を撫で続けるだけだ。思いのほか強い力で私を抱きしめるから、私は顔をあげることができない。春草さんの顔は見えないけれど、きっと困ったなぁって顔をしてるに違いない。困ったも何も、春草さんが長生きすればいいだけで、何も困ることなんてないだろう。子供のように私はわがままを言い続ける。
 確かに春草さんと出会ったことは、奇跡だ。普通じゃない。それでも、その奇跡は起こってしまったのだ。その上、一緒に鴎外さんの家に居候することになったのは偶然だ。だけど、その偶然も乗り越えて、私は春草さんと一生を共にすることになったのだから、ちゃんと責任をとってずっと一緒にいてほしい。これだけの奇跡と偶然を重ねて一緒になる人なんてめったにいないんだから。私は、彼の為に、思い出も家族も友達も便利な生活もすべて捨てたんだから、これぐらいわがままを言って当然なのだ。たった数年で終わってしまうなんて、冗談じゃない。春草さんは責任を取って、私がしわしわのおばあちゃんになっても、「君は本当に可愛いね」なんて、時には言ってくれなくちゃ困るのだ。貧乏でもいい。春草さんさえいれば、私は他になにもいらないんだから。
 私は一気にまくしたてたい気持ちを必死に抑えた。辺りは少しずつ暗くなり、外からかすかに金木犀の香りも漂ってきた。百合と金木犀のにおいが混ざり合うと、なんだか不安を感じさせる気がした。