北の日本海は、黒く荒々しい海だ。
日本でも、南のほうでは青い海もあるのだが、この地方の海はひどく黒い。
なにもかも飲み込むような、黒い海を見ながら私はどうしようもない不安にかられる。

ロシア帝国と戦う。

私はそれを聞いたとき、正直本田様が正気でいらっしゃるかを確かめたかった。
ロシア帝国について、広い国土を持つ、白人の国。としか私は知らない。
だが、それだけで私は十分予想できる。
白人は、それ以外の人間を奴隷や植民地にしてしまう、恐ろしく強いひとたちだ。
そんな白人の住むロシア帝国という国はもっと恐ろしい。ウラジオストク、というロシアの町は、「東方を制せよ」という意味らしい。そんな恐ろしいことを考えるのだ。
そして、そんな白人が住む大きな大きな、我が国の幾倍もある国で。
その上、その大国を倒せるほどの余力があるなどとは思えなかった。われわれはまだ、幕府を倒してやっと国が落ち着いてきたところなのだから。
答えは、情報さえ知っていれば誰にだって出せそうなものだ。
それは、私だけではなく知識人のほとんどがそう考えていて、むしろ、日清戦争で味を占めた馬鹿な国民の方が勝てると思っているようでもあった。

本田様が、こんな馬鹿な戦に出ることを決めたのは、あのかの冷徹非道と有名な大英帝国のせいだろう。
初めて彼に会ったとき、冷徹非道と聞いてはいたけれど、彼の容姿からは少し想像がつかない、と感じた。大英帝国自身はどこか、少し童顔の、けれど、その意志の強そうな彼の眉が印象的な男だった。
けれど、本田様に同盟を持ち掛けるときの彼の目は、今まで様々なことをしている男の眼だった。明らかに色々計算した上で持ちかけてきたのだろう。
その同盟は、本田様にとって好条件だったけれど、それでもあの大国に挑めというのは酷だと思った。
大英帝国もそのように考えていたに違いない。本田様が勝てるわけないと。ただ、時間稼ぎに使いたいだけなのだろう。そういう、冷たい空気を私は感じ取っていたし、きっと本田様もお気づきだったのだろう。

大英帝国が、もしも日英同盟などと血迷ったことを申し出なければ本田様はきっと冷静でいらっしゃっただろうに。

私は、本田様を見た。
本田様は、綺麗な顔を険しい顔になさって私を見ている。女の私が、戦場に近いこの地まで来たことを、怒っていらっしゃるのは明白だ。
本来ならば、すぐに追い返されてしまうだろうことは予測できていたから、私はあえて夜分にお会いしに来た。
それから、私たちは無言で、黒い日本海の見えるこの部屋にいる。

「本田様。私は心配でございます。」
この戦、短期決戦と聞いていた。けれど、旅順を塞ぐ作戦も失敗続きで補給船がロシアに撃沈されている。こんな状況で安心するはずがない。
「貴女が女性だから、そんなにも早く退いてほしいと願うのですよ、。」
本田様は、戦の知らない私を馬鹿にしたように仰った。けれど、その口調には苛立ちも感じられる。予想以上に難航する旅順の作戦がそうさせているのかもしれない。
これ以上言っても本田様をさらにいらつかせるだけだろう。
私は、ただ戦に肯定的な本田様に批判の意を込めて見つめた。

それからどれほど時間が過ぎたのかわからない。
けれど、不意に私はくしゃみをひとつ、してしまった。
春になりそうな時期とはいえ、やはり北の夜は寒い。
くしゃみのせいで緊張感がなくなってしまったこの部屋に、本田様は鍵をかけて、私にご自身が着ていらっしゃる軍服の上着をかけてくださった。
私は、恐れ多くて本田様にお返しを申し上げようと本田様に顔を向けると、本田様は笑ってそれを制された。

「遼東半島を取られた屈辱や半島を奪われたくないからだけではないんです。」
本田様が、私の隣に座りながら不意におっしゃった。
「白人に、われわれ亜細亜人が勝てるという事を、強国に虐げられている国でも勝てるという事を、世界中に知ってもらいたいんです。」

本田様の上着はあたたかい。日が少しずつ黒い海からでてきて、部屋を少しずつ明るくする。
私は、もう少しだけ本田様と一緒にいたくて、気付いてないふりをして本田様によりかかって眠った。