或日の暮方の事である。一人の男が、とある教会の下で雨やみを待っていた。
 教会の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々苔の生えた石の柱に、きりぎりすが一匹とまっている。この教会は、さほど大きな道にあるわけではないが、それでも行商人の一人や二人、雨宿りぐらいはしてそうなものである。それが、この男の外には誰もいない。
 何故かと云うと、数年前に大変な不況、それに続き戦争、迫害とか云う人の災いが続いて起こった。そこで、この付近のさびれ方は一通りではない。もちろん、この教会の修理などは、元より誰も顧る者はなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとう終いには、引き取り手のない死人を、この教会へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がって、この教会の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代わり鴉が何処からか、たくさん集まって来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて高い十字架のまわりを啼きながら、飛びまわっている。殊に教会の上の空が、夕焼けで赤くなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、教会の二階にある死人の肉を、啄ばみに来るのである。――尤も今日は、時間が遅いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。男は七段ある石段の一番上の段にかつての誇りであった軍服の、そして今や色あせた紺色の上着を尻に据えて、いつの間にか小鳥となった鳥を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めているのである。

 作者はさっき、「男は雨やみを待っていた」と書いた。しかし、男は、雨がやんでも格別どうしようと云う当てはない。昔なら、弟と共に過ごした家に帰った。しかし、先ほど云ったように、ここでは戦争があり、弟の下へ帰ることは叶わなくなってしまった。
 その弟の下には帰れないが、しかし、最近は、やっかいになっている男がいる。男は、そのやっかいになっている男の家にでも帰っても良い筈である。ところが、そのやっかいになっている男から、男が弟の家に帰れるように計る代わりに、とある貴族を一人差し出せと云われた。実際、男がそのやっかいになっている男の下にいることも、そして今このように放り出されるのも、とばっちりを喰らったとしか思えない。とある貴族の土地に生まれたイカれた平民を弟が心底信頼してしまったせいで、今の現状があるのである。男は当初、そのイカれた平民の男を心底反対していたのであるから、本当にとばっちりである。そのとある貴族が、男の幼なじみの思い人でなければすぐさまやっかいになっている男に売り渡しているところであった。要するに、男はその幼なじみを密かに思っていたので、いた仕方なく自分がそのやっかいになっている男の家からも追い出されることになったのである。
 だから、「男が雨やみを待っていた」と云うよりも、「雨にふりこめられた男が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少なからずこの男のSentimentalismeに影響した。午後四時頃から降りだした雨は、未だ上がるけしきがない。そこで、男は、何を措いても差当たり明日の暮しをどうにかしようとして――云はばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきからこの道にふる雨の音を、聞くともなく聞いていた。

 雨は、教会をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、教会の、斜につき出した十字架の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば、愛しいマリアの下か、敬愛すべきイエスの横で、消滅するばかりである。そうして、そこらへんの犬のように忘れ去られてしまうばかりである。選ばないとすれば――男の考えは何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、何時までたっても、結局「すれば」であった。男は手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、当然、その後に来る可き「人となるために女を犯すより外に仕方が無い」と云うことを積極的に肯定する丈の、勇気が出ずにいたのである。
 男は、大きなくしゃみをして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えのするこの地方は、もう暖炉が欲しい程の寒さである。風は教会の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹き抜ける。石の柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。

 男は、頸をちぢめながら、尻に据えていた色あせた紺色の上着を着て、肩を高くして教会のまわりを見まわした。雨風の患えのない、人目にかかる惧れのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い教会の二階へ上る、幅の広い、これも石の階段が目についた。上なら、どうせ人がいたにしても、死人ばかりである。男はそこで、腰に下げた短剣が鞘走らないように気をつけながら、ブーツをはいた足を、その階段の一番下の段へふみかけた。
 それから、何分かの後である。教会の二階へ出る、幅広い階段の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の様子を窺っていた。二階からさす火の光が、かすかに、その男の右の目を照らしている。白い、陶磁のような肌に対照的な、赤い目である。男は、始めから、この上にいるものは、死人ばかりだと高を括っていた。それが、階段をニ三段上って見ると、上で誰かが火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄色い光が、まるで救いを求める子羊たちの手のようにはりめぐらされた蜘蛛の巣とイエスが、天井を揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この教会の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
 男は、ヤモリのように足音をぬすんで、急な階段を、一番上の段まで這うように上りつめた。そうして体を出来るだけ、平らにしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、ゆっくりと、二階を覗いて見た。
 見ると、二階には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、服を着た死骸があるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、死骸らしく、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるようだった。かつて、戦場で見た死骸に比べれば、もちろん人間には近くはあるが、それでもやはり、かつて、生きていた人間とは思えない。ここの死骸は、人の形は保っていても、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやり火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永遠に黙っていた。
 男は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻を覆った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を覆う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
 男の赤い眼は、その時、はじめてその死骸の中にうずくまっている人間を見た。薄汚れた服を着た、背の低い、痩せた、どこかで見た気がする女である。その女は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗き込むように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
 男は、六分の警戒と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。すると女は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子のシラミをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるに従って、男の心からは、警戒心が少しずつ消えていった。この女がかつて自分の国の貴族の娘であったことを思い出したからだ。警戒する価値が無いと気付くと同時に、このかつて貴族であった女に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いてきた。――いや、この女に対すると云っては、語弊があるかも知れない。この女が、このように品位も無く、そしてプライドすら無くしてしまったこの行為に、憎悪が一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの男に、さっき門の下でこの男が考えていた、消滅するか人になるために女を犯すかと云う問題を、改めて持ち出したら、恐らく男は、何の未練もなく、消滅を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を、そして理不尽を憎む心は、女の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上がりだしていたのである。
 男には、勿論、何故女が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれかに片付けてよいか知らなかった。しかし男にとっては、この雨の夜に、かつては神聖であったはずの教会の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、男は、さっきまで自分が、国をやめる気でいた事なぞは、とうに忘れかけていたのである。
 そこで、男は、両足に力を入れて、いきなり、階段から上へ飛び上がった。そうして短剣を手にかけながら、大股に女の前へ歩み寄った。女が驚いたのは云うまでもない。
 女は、人目男を見ると、まるで十分に熱したフライパンの上のモロコシのように、飛び上がった。
「俺様から逃げようったって、そうはいかねーぜ。」
 男は、女が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。女は、それでも男をつきのけて行こうとする。男はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人は死骸の中で、しばらく、無云のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。男はとうとう、女の腕をつかんで、無理にねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何してたんだ?云えよ。云わねーと、こうだ。」
 男は、女を突き放すと、いきなり、短剣を鞘から抜いて、白い鋼の色をその胸先へつきつけた。けれども、女は黙っている。両手でわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が目蓋の外へ出そうになるほど、見開いて、話せないかのように執念く黙っている。これを見ると、男は久々に人の生死が――今はこの女だが――全然、自分の意思に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、男は、女を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「俺は別におまえを取り締まろうとは思ってねぇ。今たまたまここを通っただけだ。だからお前に縄をかけて、どうしようとかも事も考えてねぇ。ただ、こんな時間にこの教会の上で、何をしてたのかを話せばいいんだよ。」
 すると、この女は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっと男の顔を見守った。かつてこの女がいた社交界では、到底することもなかったであろう、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、かつては口紅で色づけ、艶やかであったはずの唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。加虐心を擽られる、白くて細い喉が見える。その時、その喉から、この場に相応しくない、小さな鈴を転がしたような声が、かろうじて、男の耳に伝わって来た。
「この髪を…、この髪を抜いてね、かつらにしようと思ったのよ。」
 男は、女の答えが存外、平凡なのに失望した。失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心の中へはいって来た。女はかつて、男と社交界でダンスを共に踊ったことがある。それほどの女だったのだから、それほどの貴族の娘だったのだから、いっそ祖国を復活させるための黒魔術に髪を使うだとか、そういった、いっそ全く生活など感じさせないような理由を男は求めていたのだ。こんな、普通の理由で、品位の無い行為を行うなど、男にとっては悪としか思えなかった。すると、その気色が、女にも伝わったのであろう。女は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、また小さな鈴の転がしたような声で、こんな事を云った。
「そうね。死人の髪の毛を抜くと云う事は、悪いことかもしれないわね。でも、ここにいる死人たちは、皆、そんなことをされてもいい人間ばかりだわ。私が今、髪を抜いていた女は、私のかつての学友よ。彼女は、祖国が没落してから娼婦になって、かつての敵兵たちに体を売っていたわ。祖国の悪口もつけて、ね。そして、娼婦の仕事以外のときは、同じ祖国の人間に敵兵たちの悪口を云うの。病気にかかって死んでいなかったら、今でも悪口を云いながら股を開いて生きていたでしょうね。それまで、貴族として国のお金で生きていたのに。でもね、私は彼女がしたことを悪いことだなんて思っていないわ。そうしなければ、殺されていただろうし、ご飯を食べることもできなかったんだもの、仕方がなかったのよ。だから、今私がしている事も悪いことだなんて思わないわ。そうしないと、飢え死にしてしまうから、仕方なくしているのよ。それに、仕方がないって事を、よくわかってる彼女は、私のする事も大目に見てくれるわ。きっと、神も私を許すわ。ねぇ、そうでしょう?それとも、国にも人にもなる踏ん切りのつかない貴方にはわからないことかしら。」
 女は、大体こんな意味のことを云った。
 男は、冷然として、この話を聞いていた。勿論、頭の上にいる、かつては立派な鷲であった小鳥を気にしながら、聞いていたのである。しかし、これを聞いているうちに、男の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき教会の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの教会の上へ上って、この女を捕まえた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。男は、消滅か人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心持から云えば、消滅などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
 女の話が終わると、男は一足前へ出た。不意に短剣で女の服を裂き、噛み付くように口付けてこう云った。
「俺はお前の祖国じゃねぇ。ギルベルト・バイルシュミットだ。俺がお前を犯しても、俺様を恨むんじゃねぇ。そうしなけりゃ、俺様も消滅しちまうからな。」
 ギルベルトは、女を手荒く死骸の転がる床へ押し倒した。

 暫く、獣のようにもつれあっていた二人が、屍骸の中から、その裸の体を起こした。ギルベルトは、つぶやくような声で女に尋ねた。
「俺様を人間に落としたお前の名前を、覚えておいてやるよ。」
女は、そんなギルベルトを嘲笑しながら、答えた。
よ。今は、もう、苗字はないわ。誰かさんのせいでね。」
ギルベルトは、苦虫を噛んだような顔で、女の手を乱暴に引いた。
「なら、俺の苗字をくれてやるよ。」
 それから、二人はまだ燃えている火の光を頼りに、階段まで行った。そうして、そこから、ギルベルトは短い銀髪をさかさまにして、教会の下を覗き込んだ。外には、ただ、黒洞々たる夜と、その闇によってかすかにみえる蜘蛛の巣まみれのイエスがあるばかりである。
 いつの間にか、彼の小鳥もいなくなってしまった。
 二人の行方は、誰も知らない。


芥川竜之介『羅生門』のパロディです。
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