日本から6時間以上かけて、西安の空港に着いた。西安の空港は、さすが観光地と言うべきか、それとも空港と言うべきか、綺麗な空港だ。空港から少しバスを走らせると、「田舎」の風景が見られる。空港は場所を取るから、日本と同じく、街から離れた場所に作ることが多い。ただ、中国の「田舎」は日本と様子が全く違う。見慣れてしまえば、その「田舎」に対して特になんとも思わない。それが良い事かどうかはわからないけれど。そんな「田舎」をしり目に一時間ほど車に揺られれば、徐々に街の風景になり、もう少しバスに揺られれば、私のかつての学び舎が見えてくる。

 夏の部屋の大掃除で、たまたま留学時代の写真が出てきた。留学、なんて言うとかっこいいが、たかだか1ヶ月の語学留学だ。それでも、久々に見る写真の数々は、確かに私がそこに存在していたことを表し、そして、何より少し若い自分が輝くような笑顔で映っていた。そこには、一緒に留学した仲間や、中国で知り合った友達も一緒に映っていて、たぶん、全員と写真をとっていたはずだ。
 それなのに。
 それなのに、この写真には、明らかに足りない。何が足りないのかわからないけれど、明らかに足りない。一緒に留学をしていた友達に聞いてみても、何を言っているのか、と飽きれていた。
 どう考えたって何かが足りないのに、どうしてみんなわからないの。どうして、私は今まで気付かなかったんだろう。私は、思い出せない何かを探しに、もう一度ここまでやって来た。

 警備員さんに一言挨拶して、校舎内に入る。数年前、私がここで学んだときは夏だった。
 夏といっても、ここは日本ほど暑くならない。よく、「外国の夏はさわやかだ。湿気が少ない。ジメジメしない。」というけれど、その通りの場所で比較的過ごしやすい場所だった。まぁ、その代わりに雨はよく降るけれど、それはしょうがない。それより問題なのは、いつだって黄砂で曇っていることだ。太陽がさんさんと降り注ぐ、なんてことはここにいればめったになかった。

 校舎内の寮の前の並木道を歩けば、相変わらず独特のにおいがする。これがなんのにおいなのか、よくわからない。私には嗅いだことのない匂いだったから。私が聞いても、
「わからんある。」
の一言で片付けられた。

 その謎のにおいを発する並木道を過ぎれば、寮はすぐそこだ。そうそう、寮の前には、留学生食堂があった。食堂のメニューはとても少なくて、同じ料理ばっかり。ごはんについては、本当に運がなかったと思う。
 最初の頃は、ごはんに驚きもあった。例えば、朝ごはんのおかゆ。まさかの赤色。まさかの小豆。彼は、おかゆに驚く私たちよりも、おかゆのお米を食べる私たちに驚いていた。
「粥は、スープを飲むもんある。いじきたねぇことするんじゃねぇあるよ。」
 後日、日本のお粥を食べさせてあげたらとてもびっくりしていた。
「我が教えたものをいつだって変えるあるな、お前たちは。」
 その時の彼の目は、なんだかちょっと淋しそうだった。寂しそうにする彼が気になって、勇気を出して彼に事情を聴いてみると、弟は日本人で色々教えても勝手に改造するらしかった。彼が中国人で、弟が日本人って、何か複雑な家庭環境だったんだろうか。私たちは空気を読んでなにも聞けなかった。そんな私たちとは対照的に、彼は特に気にした様子でもなく、そのまま弟自慢を始めてしまって私たちはちょっと困ったりしたんだった。

 思い出せそうで思い出せない。私は舌打ちをしながら、寮の建物を見た。寮の玄関はいつも閉まっていて、食堂の方の、たぶん裏口と思われるところからしかはいることはできない。玄関は閑散としているけれど、いつぞやの私たちのように留学生がいるようだ。遠くから話し声が聞こえてくる。玄関にいる警備員さんはあの時から変わらず暇そうで、話しかけてみれば、やっぱりおしゃべりだ。話は盛り上がったけれど、私の思い出せそうで思い出せない記憶は、戻らなかった。
「なぜかわからないけど、思い出せないことがあってね。それが気になるから調べに来たの。」
 そう伝えたら、それは噂の幽霊かもね、と警備員さんは笑った。たまにそういう風に言って帰って来る留学生がいるらしい。思い出せたって話は聞かないんだけどな、と言いながらも警備員さんの好意で、こっそり寮に入れてくれた。

 エレベーターを降りれば、あの小さな教室。生徒はたった4人で、先生は私たちにとても丁寧にかつスパルタな授業を行ってくれた。毎日寝るのが遅くなるほどの宿題だったけれど、私たちが少しでもこの国に慣れるように果物屋さんにまで行って、果物の名前を教えてくれた。
「Zhege shi xiangjaio.Nage shi putao.わかったあるか?」
「ちょ、これ、店だけどいいの??」
「大丈夫ある。我の国は勉強するもんに文句言わないある。」
 ……。あれ、先生だったかな?先生が、果物屋さんにまで連れて行ってくれたっけな??そもそも、本当に4人で行ったっけ???

 どうしても、思い出せない。

 私はさらにイライラしながら廊下を歩いた。ここは私がかつて生活してた部屋。さすがに中には入れないけれど、それでも色々思い出せる。そういえば、同室の子と喧嘩して、廊下で泣いてたら、
「さっさと戻るよろし!うるさいある!!!」
って怒りながら一緒に部屋まで来てくれて、喧嘩両成敗ある!って同室の子と二人でまた怒られた。でも、そのおかげで私とその子は仲直りできたんだ。

 でも誰。誰が私たちを叱ったの。

 イライラする。もう、あと少しで思い出せそうなのに。記憶を辿れば辿るほど、イライラと不安が押しつぶしてくる。

 さらに進めば洗濯室だ。洗濯室は、いつだって洗濯機の取り合い。洗濯機の取り合いに勝ったら、その腹いせに勝手にアイス食べられた。
「お前のもんは俺のもんだぜー!!!お前のアイスの起源は俺!!!」
「やめるある。ちゃんと謝るよろし。」

 誰だっけ…。

 あ。思い出した。ヨンス。ヨンスが食べた。私のアイス。でも、私が思い出したいのはヨンスじゃない。あれだけ仲良かったのに、ヨンスを忘れていたことも申し訳ないけど、でも、ヨンスじゃない。私が思い出したいのは、ヨンスと私を叱った人。

 誰、本当にだれ???どうしてぼんやりとしか思い出せないの??

 寮の最上階には、書道の教室がある。書道の先生は変わっていたけど、その先生も熱心だった。書道なのに水墨画を描く授業で、いつまで経っても絵が下手な私にそれでも教え続けてくれていた。ロシアの人たちとの合同授業なのに、ロシア人の生徒は続々と逃亡して、ロシア人の先生しか最後まで授業を受けていなかったことを思い出した。ロシアの組には、一人とてつもなくかっこいい人がいて、わたしたちは密かにモデルのようだと思って憧れていたんだけれど、彼は授業が始まって10分で教室から出て行った。
「ロシアには、興味のない授業まで出るサービスなんてないよ。」
 なんて言って。その時、夏だというのに教室の温度は氷点下まで下がるんじゃないだろうか。その時、その凍った教室の温度をものともせず、
「ちょっと待つよろし!!!!」
 そう言って追いかけに行った人もいた。ちなみに彼のその強烈すぎる行動から、その後彼の密かなあだ名は「イヴァンさま」になった。でも、イヴァンさまも私が思い出したい人ではない。いや、かなりかっこよかったから思い出せたのはありがたいけれど。

「あぁぁぁぁーーー!!もう、くそ!!!!」
 書道の教室には、いつぞや私たちが描いた竹の水墨画が、そんな私を笑うように飾られていた。

 寮から出るとき、警備員さんに、思い出せなかっただろう?幽霊はきっとシャイなんだ。と言われた。私は力なく笑って、また今度リベンジします、と言って寮を出た。

 この並木道を通ると、門に着く前に広場に出る。広場では、深夜(と私が考える時間)でも、親が子供たちを遊ばせていた。夜は昔と変わらず、案外涼しくて、子供たちは子供特有の高い声で騒いでいる。

 どうして、どうして思い出せないんだろう。そればかりが気になって仕方がない。

、危ないある!!!!」
 咄嗟に引き寄せられた。突然現れた自転車がものすごいスピードでベルを鳴らしながら通り過ぎた。

「何してるある!!!死ぬ気あるか?!」
 私がびっくりして振り返ると、赤いチャイナを着た男の人。
「す、すいません。考え事をしてて。」
「死んだら何も考えられないある。何を悩んでるかにーにに話すよろし。」
 にーにって……。私は苦笑してしまった。普段の私なら、知らない人なんて決して信用したりしない。たとえ、自分の国の人でも信用なんかしないだろう。でも、さっき助けてもらったばかりだし、なにより、どうしてだか、私は明らかに怪しい日本語を使うこの赤いチャイナ服のこの人をすごく懐かしく感じてしまうのだ。

 私たちは、とりあえず近くのお店で遅めのお昼を食べることにした。悩むのを一旦やめたせいか、空腹に気づいてしまった私のお腹がものすごい音で自己主張し始めたからだ。恥ずかしい。
「で、何悩んでるある。」
 料理を選び終わって、単刀直入に聞かれた。そもそも、悩みを聞いてくれるのが本題だったはずで、この人に出会ってから、道中時間があったにも関わらず、私はすぐにことばがでなかった。ことばにしようとすると、頭がこんがらがってしまうのだ。さっき、警備員さんにはすんなりと言えたのに。言おうとすると、なぜかよくわからない声が聞こえてくる。それを本当にこの人に言ってもいいのかって。頭が混乱しているせいなのか、どうなのかわからないけれど、涙で視界がにじんできた。恥ずかしい。知らないひとの前なのに。

「あー。もう、とりあえず、茶でも飲んで落ち着くよろし。」
 いつもここで飲んでいた懐かしいジャスミンティー。飲むと不思議と落ち着いてきた。
 ことばにならなくても、伝えよう。このひとを信じて。
 私は、意を決して話し始めた。かつて私がここに留学していたこと。短い間だったけど、とても楽しかったこと。でも、当時の写真を見たら、なんとなくだけど、何かが足りないこと。だけど、私は何か大事なことを忘れている気がすること。たどたどしい上に、時折泣きそうになったりしながら、一生懸命伝えた。彼は柔らかい表情で、時に頷きながら聞いてくれた。

 全てを聞いてから、彼は、
「それは、本当に忘れたあるか?気のせいじゃないあるか?」
と、相変わらず優しい顔で私に尋ねた。不思議と、この人にそう言われたらそう思えてしまう。頭の中で、不思議な声が、気のせい、気のせい、と囁く。でも――。
「気のせいじゃ、ないんです。絶対、私は大事なことを忘れていると思うんです。」
 彼は、柔らかい表情を少し崩した。
「じゃあ、思い出すほどのことじゃないあるよ。たいしたことないから忘れたある。」
 また、私の頭の中でたいしたことない、たいしたことない、と声がする。この人の声には、何か催眠術でもあるのだろうか。
「大したことがないなら、きっと私はここまで来たりしません。」
「じゃあ、物の怪に憑かれてるあるよ。きっと思い出さない方が良い事ある。我は仙人だからわかるある。もう、詮索するのは止すあるよ。」
「悪いことかどうかは私が決めるんです!思い出させてよ!」
 私は自分自身もびっくりするくらい大きな声で怒鳴ってしまった。この人に言ったってしょうがないのに、どうしてこの人を責めるようなことを言ってしまったのかわからない。
 彼は、はぁぁぁっと盛大に溜息をついて、
「飯でも食ったら思い出すあるよ。本当に思い出したいのなら。」
と、意味不明なことを言って指を鳴らした。さっき注文したものとは違う、餃子に私は驚いてしまった。これは、たぶん餃子のフルコースの一皿目。
「しゃあねぇからこれでいいある。」
と、不満げに言って、二人で食べ始めた。

 一皿目の餃子は、水餃子。あぁ、そうだ。私は、初めてこの大学に来たとき、日本では嗅いだことないにおいが校内でするもんだから、男の人に聞いたんだ。この匂いは何?って。そしたら、わからんある、の一言で、なんて不親切な人なんだろうって思ったんだ。

 二皿目の餃子は、金魚のかたち。朝の食堂でまた彼を見つけた。お粥のごはんを食べる私たちに驚いた顔で注意してきた。
「粥は、スープを飲むもんある。意地汚ねぇことするんじゃねぇあるよ。」
 日本のお粥はお米まで食べるんだよ、と説明したら、笑って言ってくれた。
「ここではここの食べ方してほしいあるが……。まあ、仕方ねーあるな。あ、我は王耀。好きに呼ぶよろし。」
 この時、私たちはやっとお互いに自己紹介したんだ。

 三皿目は野菜の餃子。中国語の授業で落ちこぼれの私を見かねて、王くんは私を街に連れ出した。果物屋さんで果物の名前、スーパーでお菓子の名前、美味しい料理の名前、色々教えてくれた。
「まるで先生みたいだね、王くん。」
「先生より、にーにって呼ぶよろし。そっちのが嬉しいある。」
って言ってたけど、私は無視してそのまま王くんって呼んだ。だって先生でもにーにでも、王くんって呼ぶより、私たちの関係が遠くなる気がしたんだ。よくよく考えれば、初めて王くんと二人で出掛けれた!デートだ!って、私はその日嬉しくてなかなか寝れなかった。

 四皿目は牛肉の餃子。同室の子と喧嘩して、廊下で泣いた。
「さっさと戻るよろし!うるさいある!!!」
って、王君は怒鳴ってたけど、怒鳴る前に心配そうにうろうろしてたの、ほんとは私知ってた。まさか、同室の子と二人で怒られるとは思わなかったけど。でも、おかげで仲直りできたんだよ。あの時はありがとう。

 五皿目は羊肉の餃子。洗濯機はなぜかいつも私とヨンスの取り合い。あの日はギリギリ、洗濯機をヨンスより先に奪えた。その腹いせかなんなのか。せっかく買ったアイスを全部、ヨンスに目の前で食べられて、私がまたしくしく泣いてた。王くんがすかさずやってきて、ヨンスを叱って、私も叱られた。またもや喧嘩両成敗。
もびーびー泣くだけじゃダメある!!いったいいくつあるか!ちゃんと、ヨンスに怒るあるよ。」
「兄貴はに甘すぎるんだぜ……。」
 ヨンスは怒られたことよりも、私が甘やかされてることのほうが辛かったみたい。

 六皿目は魚の餃子。モデルみたいでかっこいい!と騒ぐ私に、
「イヴァンには、気をつけるある。」
と、珍しく真剣な顔の王君。
「それって、もしや嫉妬とかいうやつでありますか?」
 もうその頃の私は王君に好意を隠そうとすらしてなかった。ち、違うある……!と、いつもと違って顔を真っ赤にしてる気弱そうな王君は、正直とっても可愛かった。そんな私たちを後ろで見ていたイヴァンさまは、
「ロシアには、興味のない授業まで出るサービスなんてないよ。」
 なんて呆れた顔で言って出て行った。あれは授業に対してではなく、明らかに私たちに対しての行動で、私は恐怖に慄いた。王君は、出て行ったイヴァンさまを追いかけていった。でも、あれは教室に引き戻すためじゃなくって、好意を隠そうとしない私から逃げ出したんだと思う。

 最後の翡翠餃子を食べようとしたら、目の前の王君が引き止めた。
「もう、十分思い出したある。それ以上食べても悲しくなるだけあるよ。」
 悲しくなんて、と思ったのに、気付けば私の顔は涙で濡れていた。それでも。
「悲しくなるかどうかなんて、食べてみないとわからないよ。王君。」
 私より辛そうな顔をしている王君を前に、私は、最後の一皿を食べ始めた。

 その頃の私たちはほとんど付き合ってるような状態だったけど、私はなんだか気恥ずかしくて気持ちを伝えることはできずにいた。あの日、遅めの晩御飯を食べたあと、二人で少し町をぶらついていた。並木道を通って、広場を通りかかった。だいぶ夜遅くなってしまったけれど、この国は中々眠らないから大丈夫だ。広場では、深夜(と私が考える時間)でも、親が子供たちを遊ばせている。夜は夏でも案外涼しくて、子供たちはきゃあきゃあ騒ぐ。街燈はキラキラと星の代わりに煌いていた。私は、それをなんとなしに見つめながら子供って可愛いよねーと、特に何も考えずにつぶやいた。
 王君は、それを聞いてか聞かずか、真剣な声で、
「ちょっと聞いて欲しいことがあるある。」
とつぶやいた。私は、あるあるって何あるよってツッコミを入れたかったけど、我慢して、王君に向き合った。だって、ついに王君から愛の告白が聞けると思ったから。
、我はが好きある。でも、我は国だからと一緒にいることはできないある。」
「国……?」
 最初、何言ってんだろうって思った。だって、国って、あの、国でしょ、って。でも、王君の顔が、本当のことを言ってるって何よりも物語っていた。彼が国だって理解したその時の気持ちを、今ははっきりと思い出せる。
 私は、目の前が真っ暗になった。国が人と付き合うのは大丈夫。違法じゃない。だけど、国は年をとらない。子を成さない。
 多くの国は、人と関わることを極力避ける。国と深く関わる人は、時間の流れ方が狂う。国のようにゆっくりになってしまうらしい。国ではないから、その時間に耐え切れずに、狂って死ぬと。国自身は、愛しい人が狂って死ぬ様を、見届けなければならなくなる。だって、愛しい人の家族はもう、誰もいないのだから。

 翡翠餃子の思い出から、後の記憶は思い出せそうにない。国は、国から出て行く他国民の記憶を消すことができるのだろうか。
「王君、なんで勝手に私の記憶、消したの。」
 私の顔は、涙でぐしゃぐしゃだ。
。お前は我の大事な人ある。幸せになってほしいある。」
 王君は、一粒だけ涙をこぼした。電気の光を反射して、白く輝いて落ちた。その涙は何よりもきれい。
「私が、いやなの?」
 そうじゃ無いのはわかってる。どうしようもないことだってわかっている。
「違うある。に、もしも目の前で死なれたら、我は狂うある。だから」
「じゃあ、狂ってよ。私が死んでいくさま、ちゃんと見てて。」
 私の涙きっと醜くて汚い。